千と千尋の神隠し (2001/09/30)
 
 宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」を二週続けて神奈川圏内某所にて鑑賞した。個人的には20余年前のルパン3世カリオストロの城に次ぐ傑作と思われる。まだ見ていない人のために詳細なコメントは差し控えるとして、率直な感想を記したい。

 一言で言えばこの映画は「日本人の宗教感と地球規模に迫り来る環境問題を根底に忍ばせつつ、宮崎駿が本当に描きたかったのはラナやクラリス、ナウシカ、ハイジではなく、未来少年コナンのコナン女の子バージョンなのだ」ということではないだろうか。

 八百万の神、つまりは川にも石にも樹木にも、石炭にも神は宿り、万物すべてに神が宿るという日本人の宗教感。この映画が一神教の海外でヒットするかは分からないが、日本人の忘れていたものを確実に思い起こさせてくれる。もののけ姫のような壮大なテーマともちがい、カリオストロ城日本版の湯屋場を巡る一大スペクタクル。まだ幼い少女千尋(実際彼女は自分の姓名さえ漢字で書けていない)が、徐々にパワフルになっていく様は爽快である。みんな生きるために働いているんだ。みんな一生懸命働かなくてはならないんだ。初めてアルバイトに行った時の心細さを思い出しつつ、うまそうに食べる肉まん。随所に見られる教育的な配慮(礼節を重んじる心)や、笑いのつぼを押さえたコミカルなショート・ショート。実際には臭いまでは伝わらないのに、本当に臭そうな汚れ神。今回は「まっくろくろすけ」が良く働いている。
 終盤。本当に大切なものを見失うとき、それはとても滑稽に映る。宮沢賢治の銀河鉄道の夜、ジョバンニとカンパネルラが乗っていそうな電車に乗るとき、たった四枚しかない回数券がシュレッダーされていく、もう後戻り出来ない気持ち。この場面だけでも本当は100時間くらい欲しいところである。 ガニ股の千は本当はジムシーだったんだと錯覚させつつ、階段から転げ落ちつつ走る千尋。主人公に外壁を登らせたら右に出るものはいないのが宮崎アニメでもある。

 未来少年コナン。宮崎はコナンに始まりコナンに続く。四半世紀もの時の流れが、映像美を究極なものにしつつ、本当に大切なものは「愛」なのだということを知らしめてくれる。何時の時代も変わらないもの、それが「愛」なのだ。ラオ博士と釜爺がダブって見えるとき、千とコナンとジムシーがダブって見えるとき、宮崎ワールドが炸裂してくる。

 いい。この映画はいい。細部にこだわる本物の技と、考え抜かれた台詞の重み。アニメ映画の哀しいサガでガキンチョたちの泣き声と、女子中学生のポップコーンを頬張る音さえ我慢できれば、何度でも観たい映画である。さて来週も観にいこっかな。
 ところでコナンで船長と結婚することになる助演女優は誰だったかな。今回のリンとダブって見えなくもないから不思議さ。


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