都内某所 (2002/09/03)

 
 先日、お正月に獺祭の魅力を教えてくれた某氏らと都内赤坂某所のワインと日本酒をお洒落に飲ますお店に行った。地下一階のその店は、大人の隠れ家的な雰囲気があり、間接照明を巧みに配した都会的な空間であった。和をモチーフにした創作料理も都会受けするスタイルで、世界各地の銘醸と日本全国の純米吟醸を飲ませるお店であった。客層も場所柄サラリーマンやOLが多く、雑誌で東京のお洒落なお店特集を組まれれば、その何ページ目かに登場しそうな装いだった。

 このお店のイメージを改めて思い起してみよう。例えば仕事帰りに居酒屋に行ったとしよう。本当はしっぽり飲みたいのに同僚に誘われるまま騒々しい店内で居心地が悪いと思ったあなたは、密かに目を閉じ、雑居ビルの5階から地下の隠れ家へと一気に想像力を働かせる。イタリアのデザイナーがこしらえた椅子に腰掛けながら、ほの暗い間接照明の明かりを探す。お洒落なグラスに注がれたビールで喉の渇きを湿らせつつ、今夜のお薦めメニューの幾つかを注文して、2杯目の酒には白ワインを選んだりする。今夜は金曜日のためか、店内は満卓で、いつも静かなカウンター席ですら隣の客の笑い声が気にかかる。「なんだ。もう少し遅い時間に来ればよかったな」。空調設備が整っているとはいえ、ワインバーで煙草吸うなよと客層を疑う目つきで店内を見まわすと、女性客だけのグループが幾つもあるのに気付いたりする。「不景気だって言うのに、OLたちは金もってんな」そんなことをぶつぶつ呟きながら、出てきた刺身に舌鼓。何故この刺身はグレープフルーツを半分にした器に載っているのだろう。あとでグレープフルーツも食べるのかな。それにしてはスプーンがないな。どうでもいいけど、少し騒がしいな。お酒の席だから多少はしゃぐのはやむを得ないか。それにしてもちょっとうるさすぎやしないかな。ふう。と、そこへ最近流行りのお豆腐料理が差し出され、自分の空想が唐突に終わり、もとの居酒屋に戻ってしまったかのような、そんな現実の居酒屋に戻る直前の想像力のままの店舗に似ているだろう。

 要は、お洒落な空間だが、少しうるさめのワインバーという感じなのである。照明が暗いので、ワインを飲むには少し不向きだが、夜の世界で明るすぎる照明も雰囲気がないので、これはこれで良しにしよう。それよりも私がこの店で気にかかったのは、日本酒の飲み方だった。私たちは、赤坂の土地柄からか市場価格よりも相当高い純米吟醸の四合瓶を注文することにしたのだった。何故ワインにしなかったのか。それは、ワインの品揃えが、若干厳しく、近くのディスカウント店と同じ銘柄が、4倍近い価格設定だったからである。相対的にも絶対的にもこのお店の飲み物はかなり割高のような気がする。メニューを見てその価格から飲みたい欲求が冷めてしまうのだった。まあ、それはいいとして、話を先に進めよう。獺祭を私に進めてくれた某氏が選んでくれた酒は、明鏡止水。なかなかの銘酒である。しかしここはワインバー。この日本酒、チューリップ型の大吟醸グラスでサービスされることになった。

 村上春樹に言わせれば
(註1)、焚き火のファンは5万年前から存在し、恐らく5万年後も存在するという。それになぞらえれば、日本酒のファンは日本の大地に稲穂が実ったときから存在し、おそらくこの国に水田がある限り、存在しつづけるだろう。それだけ日本人の生活に密着している日本酒は、昔ながらのお猪口やぐい飲みで舐めるように飲むのがよろしいようである。ワインブームに乗って一流メーカーが日本酒用にグラスを開発したのは数年前。同じ日本酒でも、お洒落なグラスで味わうと、白ワインのようなにフルーティな味わいとなって人々を楽しませる。なるほど。自分で確かめれば、この不思議な味わいの変化は結構楽しかったりする。見た目にも美しく、日本酒再発見の悦びに包まれたりもする。

 しかし、たっぷり注がれたグラスからは日本酒特有の穀物臭が内向きのグラスにとどまり続け、なんともくどくて、たまらない。しかもグラスで飲むと口先の形状がいつもと異なり、いわゆる舌鼓が打てなくなったりもする。どうもこの感覚は嫌いなのだ。これは酒の種類によるものだろうか。真相は分からないが、私は日本酒は昔ながらの器で飲みたいのだ。間接照明の店舗には似つかわしくないかもしれないが、やはりお猪口で楽しみたい。和には和の伝統を。焚き火にも正統的な焚き火があるように、日本酒にもその味わい方がある。物は器。この国の鎖国政策がとかれ、異文化が怒涛の如く押し寄せてから100年以上たつ。西洋の偉大な技術によって造られたものも数知れない。しかし、西洋の技術が全てすばらしいとは限らない。有史以来の伝統を持つワイン造りとグラスの関係を、そっくり日本酒に応用するのは無理があるのではないだろうか。それは焚き火をガスバーナーで起こすような、そんな印象に通じたりしないだろうか。(しない。この例えには無理がある。)

 たまには趣向を凝らして、日本酒をグラスで飲んでみる夜もあっていい。しかしそれは一杯目だけにして、あとはゆったりいつもの調子でやりたいものだ。日本酒は、昔ながらの飲み方が一番うまい。そう信じてやまなかったりする。

 ところで肝心のお店の評価だが、お洒落な空間として楽しむには申し分ない。物腰の柔らかい店員との会話も悪くないし、トイレも綺麗だ。カウンター一杯に並べられたワイングラスも、星一徹よろしく、おりゃぁぁとちゃぶ台ひっくりかえしたくなる衝動に駆られるもの損害賠償の金額も半端じゃなさそうなので、グイッと押さえられる。料理も若干創作しすぎるきらいはあるものの、そこそこいける。全体的には好感がもて、予算が許せば、はじめてのデートで使うのにはもってこいかもしれない。ただ、食にこだわったり、ワインにこだわっている場合は、やや物足りなさを感じざるを得ないところが、一抹の寂しさを覚えたりする。そんなわけで、このお店の名は伏せておこうと思う。

 何故こんなことを書いているのかといえば、店員にお猪口をくださいとお願いして、何個か用意してもらったのだが、空になった大吟醸グラスに酒を注いでくれたあとで、お猪口を差し出してくれたからだ。今注がれたお酒は、グラスからではなく、お猪口で飲みたかったのに。なんで2杯目注いじゃうかなという憤りを、単純に自宅のパソコンにぶつけているだけだったりする。

 そしてこのコラム、読み返してみるとオチがないことに気付く。いつものことだが・・・。


おしまい


註1 : 新潮社刊 「神の子どもたちはみな踊る」に収録の「アイロンのある風景」参照

 
このコラムは、グラスメーカーの営業を妨害することを目的としていません。ただの「好みの押し付け」として軽く受け流していただければ幸いです。ものは試しで某社の大吟醸グラスを買って試してみよう。違いがキッと分かるはずだ。グラスの方が好きかも知れないし・・・(フォローになっていないという節が有力ですね)


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