たった一つのパンで評価を落とすレストラン (2004/07/21)

 
 昨夜、都営地下鉄大江戸線沿線のお洒落な街のお洒落なレストランで食事をしたが、はじめてパンのお代わりを拒否されてしまった。パンひとつお代わりできなかったくらいで、セコイといえばセコイ話なのだが、パンは一人一個と決まっておりますと言わんばかりの対応に、唖然としつつ、その瞬間からハッピーでなくなったこのレストランに居続ける事が困難になり、それでも他の人の手前それも適わず、大変居心地の悪いひと時を過ごさせてもらった。

 都内の一等地でレストランを構える以上、経費は極力抑えたいのだろう。ガラス張りの外装や、間接照明を配した東京を意識させるお洒落な空間作りやら、ここ東京で一番を目指していますというプライドの高さもそういえば目に付きやすく、やたらと多いスタッフの人件費も馬鹿にならない金額に達しそうである。パンひとつにしても買えばそう安くないのかもしれない。しかし、と思う。それまで順調だった料理も急にコスト最重視の逸品に思われ、今後メインディッシュについてくるであろうシェフ自慢のソースをたっぷりと堪能することも出来ないことに、せっかくの料理がもったいないなあと思いつつ、よくよく考えれば、ソースをじっくり味わわれては、何か問題でもあるのかと買いかぶりたくもなってきた。

 パンがまだテーブルにあったころは、前菜として出された料理のおいしいところを発見しようと努力したりもしたが、パンお断り宣言以降は、なんだかとっても陳腐な料理に思われ、メインのイベリコ豚にいたっては、脂身を排除した料理自体に違和感を覚えたりした。日本人の健康ブームを受けて、脂身は敬遠されがちとは思いつつ、イベリコは脂身が最も美味しいのになあ、である。

 今までの(ハッピー)レストランではレストランから積極的にパンのお代わりを進められていた。品数の決まっている料理に対する満腹感の調整役としてのパンの位置づけや、ソースを最後まで味わうための食材として、レストランにおけるパンの役割は大きいと思う。それだけに青山某店ではメゾン・カ○ザーの特注品を惜しげもなく使っているし、平塚某店では手間隙かかりつつも自家製パンでおもてなしをしている。パンにこだわるお店は、料理そのものにも当然こだわりを持っているものである。それだけにレストランでのパンが美味しいと、自ずとお店への好感度はアップする。そしていくらパン好きといっても一晩でそんなにパンばかりを食べることは出来ないのだから、せいぜいあと一個か二個くらいのパンを用意しないばかりに、お店との一体感を消失させ、お店の評価は音を立てて崩れていくのであった。

 パンを一個出さなかったくらいでガタガタ言うんじゃねえと、そのお店から言われそうではあるが、レストランはお客様がハッピーになり、スタッフがそれを支える(または共有する)場所であるならば、パンのない食卓はたいそう貧相で、とてもアンハッピーな場所へと成り下がるのだから、あーあ、である。

 そう安くない金額を支払って、大江戸線の駅に向かいつつ、この路線は非常に深いところを走っていて、ホームにたどり着くのも厄介で、JR線との乗り継ぎも不便だったりするので、このレストランでのかなしいひと時への苛立ちがいよいよ増してくるのだった。何でこんなところで、わざわざごはんを食べに来たのだろう。ああ、それはそれでいろいろあるんだった。むにゃむにゃむにゃ・・・。

 パンひとつでレストランの評価は影響するんだと、実感しつつ、食の恨みは怖そうで、それでもこのお店には二度と行くこともないのだから、まあご縁がなかったということで円くおさめよう、かもしれない。つくづく「食」は難しいなあ・・・。


おしまい

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