つかの間のおいしさ (2006/04/12)

 
 最近、フランス料理の専門誌を読みふけり、歴史やレシピを学びつつ、料理の写真に腹を空かせたりしているが、実は旨そうに見えないお料理も多数あることを発見してしまっている。有名シェフのお料理をプロのカメラマンが撮影し、有料で購入している雑誌の料理写真が、旨そうに見えないのだ。なぜだろうと思った。

 お料理から、その温度が伝わってこない。そして香も・・・。

 香は物理的に無理としても、スープや椀物に湯気がなかったり、天麩羅のカリカリ感が失われていたり、豚肉が外側に反りあがっていたり(これはシェフの腕かも・・・)・・・お料理の見栄えはよくても、そのお料理の温度が伝わってこない写真が多いのだ。そして、その原因の多くは、お料理の本質にあるように思われる。お料理には、最適の温度があり、温かいものが温かい時間はそれほど長くなく、また冷たい食べ物も、冷たいままではいられないからだ。

 しかし、撮影では一方で湯気があるとお料理が見えにくくなり、その辺にカメラマンのジレンマもありそうな気配だったりするが、要はお料理の「何」を伝えるかによって、湯気をはじめとする温度感の伝達方法に違いがあるのだろう。それは見栄えだったり、素材の色合いだったり、器との調和であったり・・・。

 お料理は、サービスされた瞬間が一番おいしいと信じている。

 お椀物だったら、蓋を開けた瞬間の、あの湯気に混ざったお出汁と柑橘の香のハーモニー、そして温度。パスタだったら、アルデンテの、あの歯ごたえ。お鮨だったら、人肌に馴染み過ぎない温度だったり、天麩羅だったら、カリっと揚げられた瞬間のうまみだったり、焼肉だったら、熱々のもごもご感だったり、アイスクリームの表面が濡れるように解ける瞬間だったり・・・。これはカウンターで食べる天麩羅と座敷で食べる天麩羅の違いを見れば、明らかだろう。また、パスタにこだわるレストランでは、お客さんが電話なり、トイレなり、タバコなりで、中座した時に運悪くサービスせざるを得なくなった場合、そのパスタはあえて出さずに、新たにパスタを湯で始めるという。それは最高のパスタはそのおいしい瞬間が短いことに由来し、これはそのおいしさに妥協を許さないシェフの魂の部分なのだろう。

 そんなお料理のつかの間のおいしさは、その瞬時に食したい。決して雑誌の写真からは伝わってこない、ましてや携帯カメラからは伝えきれない臨場感的おいしさは、レストランでの醍醐味に他ならないのだから。おいしいの瞬間は、結構儚いものなのだから。

 で、あるからして、私はレストランでお料理の写真を撮ることを好まない。椀物の撮影をしている間に、真の旨さは失われてしまいかねないし、そのおいしさは写真では決して残せないと信じているからだ。第一その椀物になぜ蓋がしてあるのかを考えれば、いいだけのことかもしれない。

 「おいしい」は心に刻め。プロのカメラマンが、時間をかけて撮影したお料理の写真ですら、そのおいしさを伝え切れていないのに、電話についているカメラでは、そのおいしさの本質までは写せない。だったら、はじめからお料理の一番おいしい瞬間 = サービスされた瞬間を満喫したほうが、いいと思う。

 レストランで、お料理の撮影を拒む料理人は少ないが、撮影の間に、自分が作ったお料理のもっともおいしい瞬間が失われていくことに戸惑いを感じる料理人は少なくない。お決まりの写真撮影のあと、お料理を食べるでもなく、雑談に耽るお客様をカウンター越しに眺める料理人のテンションは、いつまで高いままでいられるのだろうかと思うと、職人さんに気の毒と思ってしまうのは、私だけだろうか・・・。

 ただ、おいしいお料理を前にして、その美しさを記録に残したいという思いも、わからなくもない。撮影にそんなに時間もかからないことから、よほどのことがない限り大幅な温度変更もないように思われ、要は一緒に食事を楽しむ人と、その食空間を共有できていればいいのであるが・・・。

 しかし、お料理には、つかのまにしかない、おいしさがある。

 そのおいしさを共有できると、とてもうれしくなってくる。

 おしまい


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