邪馬台国時代の列島事情

倭国大乱をへて卑弥呼が女王に共立された舞台は
列島のどれほどの地域に及んだのか?


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  考古学者の9割が畿内説支持

 1996年の池上曽根遺跡での衝撃的な年代修正、いわゆる「弥生の年代革命」は、考古学史上きわめて大きな事件となりました。
 この事件以後、半年たち、1年たつうちに、考古学者に新たな動きがあらわれてきます。邪馬台国の所在地については明言をさける傾向にあった研究者たちが、はっきりと態度を表明し始めました。多少の温度差はあっても、その大半が畿内説です。当時すでに考古学者の9割が畿内説といわれたほどでしたから、現在では、もっと多いものと思われます。
山の辺の道から箸墓、大和三山を望む  もともと考古学者の間では、九州説よりも畿内説のほうが優勢とはいわれていましたが、これほどはっきりした動きが現れる背景には、弥生の年代修正によって、近畿地方の立場が相対的に上がってきたことがあげられます。
 弥生時代中期後半の近畿地方には、池上曽根遺跡など多くの環濠集落が存在することがわかっています。それらは当時の「近畿の首都」ともいうべき奈良県の唐古・鍵遺跡を取り囲むように分布しています。遺跡の分布密農を見ると、すでにそのころから畿内のほうが北部九州より高いとみられています。


  中国とも独自の交渉ルートを持つ

 以前は畿内のこのような弥生遺跡の年代が、紀元後1世紀くらいと考えられていたのが、今では紀元前1世紀です。つまり、邪馬台国の卑弥呼の時代より200年も前に、近畿地方では、各地を結ぶネットワークが形成されていたようです。
 また、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡の調査によると、畿内の社会ではすでに、中国や朝鮮半島との独目の交渉ルートをもつていたらしい。これは邪馬台国諭争の根幹を揺るがす新たな見方です。女王卑弥呼が登場する200年も前に、近畿はそれくらいのレベルにあったと見られ始めました。

土器に描かれた中国風楼閣(唐古・鍵遺跡出土)


 大陸と交渉する玄関口も、北部九州だけでなく、出雲をはじめとする山陰地方や、丹後半島あたりにもあったのではないかと予想されています。しかも、弥生中期の大規模な環濠集落は、近畿地方だけでなく列島各地に広く分布しています。
 かつては、列島の各地域は北部九州の影響下にあるとする見方が有力で、『魏志倭人伝』に描かれた倭国内の30国も、北部九州のなかだけで捉えようとする見方もありました。しかし今では、列島規模で見なければ弥生時代の倭国の実情に合わなくなっているのです。


   邪馬台国時代の大型墳丘墓

 邪馬台国はいかにも霧の向こうの伝説の古代国家といった印象ですが、じつは、弥生時代の終末期に位置しています。弥生時代の初めに本格的な稲作が開始されてから、すでに数百年が(最新の説では千年ほどが)過ぎた時代です。つまり、弥生の社会が威熟し、次の古墳時代へと向かう境目に邪馬台国は位置しています。
 ちょうど邪馬台国に卑弥呼が登場する頃から、列島各地には弥生の墳丘墓といわれる大型の墓が造られ始めます。これらは古墳時代の始まりを告げる前方後円墳の元になる墓の形態といわれています。
 弥生の墳丘墓は、最初に山陰地方の出雲や瀬戸内地方で造られはじめ、やがて大和や丹波、遠くでは関東の干葉県でも造られるようになります。
纏向遺跡の矢塚古墳  ちょうど卑弥呼が生きていた時代に、列島各地でそれらが造られ始めるわけです。これは、それぞれの地域を束ねる首長クラスの人物が、列島各地に存在したことを意味します。
 日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓のある大和の纏向遺跡にも、石塚や矢塚など、箸墓より古い弥生の墳丘墓がいくつかあります。それらはすでに前方後円 形をしており、大きさも数十メートルの規模があります。とくに、石塚は100 メートル近く、弥生の墳丘墓のピークに位置しています。
 箸墓が造られる前に、大和の纏向遺跡ではそれだけの墓を築く首長がいた、ということです。
 注目されるのは、石塚の築造年代ですが、最近の調査報告によると2世紀末か3世紀初頭という非常に早い時代とされています。卑弥呼がまだ生きている時代、というよりも卑弥呼が女王になって間もないころに造られたようです。
 こうなってくると、邪馬台国東遷説はまったく立場がなくなります。


   東遷説の盛衰

 邪馬台国東遷説というのは、卑弥呼の時代に北部九州にあった邪馬台国が、次の女王、台与(壱与)の時代に、畿内大和に移動したというような考え方です。
 これまでの邪馬台国論争では、この東遷説が、非常に勢いよく唱えられていました。マスコミによく登場する有力な考古学者が主張していたこともあって、作家やマスコミ関係者に支持者が多く、あたかも最有力説のような観さえ呈していました。
 ところが、東遷説でいう邪馬台国が九州から大和に遷(うつ)ってくる以前に、列島各地でこのよう弥生の墳丘墓を造る動きがあり、大和の纏向では、石塚と いう大きな首長墓が築かれていたとなると、邪馬台国が東遷してくる必要はどこ飛鳥の猿石にもなくなります。
 『魏志倭人伝』にはまた、卑弥呼が女王に共立される前、倭国は大いに乱れたと記されています。この倭国大乱と関連づけられる高地性集落遺跡は、九州から北陸にいたる列島の西半分ほどを覆(おお)う広がりをもっています。卑弥呼が女王に共立される舞台は、九州だけにとどまらず、列島の西半分ほどを覆っていたと考えないわけにいきません。


   神武東征説話の意味

 邪馬台国東遷説は、「先進の北部九州」と「古墳という受け皿をもつ畿内」を結びつける旧来の考え方の上に立っています。しかし、今では九州と近畿の時間差がほとんどなくなり、あえて両者を結びつける必然性はなくなってしまいました。
 また、東遷説には古事記や日本書記にある神武天皇の東征説話が暗に考慮されている、といわれています。
 神武東征とは、九州に天降った天皇家の祖先が、やがて神武天皇の代になって畿内を征服したというストーリーです。
 でも今となっては、神武天皇の東征説話の背後に邪馬台国の東遷という事実があったというような、こねくり回したアイデアを出すよりも、天皇家のルーツは九州にあったと単純に考えるほうが、おそらく歴史の真実には近い、と私には思えます。  むしろ、神武東征説話には、別の意味があると私は見ています。(2004年3月)



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