記紀には、なぜ卑弥呼の名がないのか

消された邪馬台国の存在

石舞台古墳 7世紀


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     ふたつの天皇陵

  「記紀」(古事記と日本書紀)によりますと、大和朝廷の実質的な創始者とされる第10代崇神天皇以下、最初の3代の天皇が、纏向周辺の三輪山山麓に宮を築いています。初期の大型前方後円墳もこの地域に集中しています。
 纏向遺跡のすぐ近くで、大和政権は誕生しているという事実があるわけです。
 『日本書紀』には、崇神天皇の墓は「山の辺の道の匂(まがり)の岡の上」にあると記されていますが、その正確な場所は明らかではありません。
 今日、崇神天皇の墓とされているのは、箸墓から2キロほど離れた山裾にある行燈山古墳(あんどんやまこふん)です。初期の古墳が多く集まる柳本古墳群と呼ばれるところで、この行燈山古墳と、箸墓古墳のほぼ中間に、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)という大きな古墳があります。こちらは第12代景行天皇陵とされています。行燈山古墳と渋谷向山古墳のふたつの古墳は、前者が全長242m、後者が全長302mで、景行陵の方が崇神陵より大きく造られています。
 ところが、このふたつの古墳はかつて、陵墓比定が逆だったといわれています。

柳本古墳群

行燈山古墳(手前)と渋谷向山古墳 (C)SYOICHI UMEHARA

 江戸時代末の1861年から66年にかけて、「文久の修陵」と呼ばれる大規模な天皇陵の修復がおこなわれました。それは修復とはいっても、濠を広げたり、堤を高くするなど、大がかりな土木工事を伴うもので、「新しい古墳づくりといった側面さえあった」(森浩一著『前方後円墳の世紀』『巨大古墳の世紀』)ということです。
 問題は、この文久の修陵以前には、行燈山古墳が景行陵で、渋谷向山古墳が崇神陵であった点です。かつては現在とは逆の陵墓比定だったわけです。そして、修復工事が終了する直前の1865年、ふたつの陵墓比定の取り替えが行われ、現在のように、行燈山古墳を崇神陵、渋谷向山古墳を景行陵となったようです。


     邪馬台国と大和朝廷の関係

 ところが、現在の考古学では、かつての陵墓比定の方が正しかった可能性が指摘されています。宮内庁がふたつの陵墓の周濠の土器を調査したところ、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)の方が、行燈山古墳(現崇神天皇陵)より古い形式の土器だったといいます。まだ確定するだけの十分な資料があるわけではないようですが、どうやら渋谷向山古墳の方が古いらしい。つまり、崇神天皇の墓は、行燈山古墳よりも渋谷向山古墳の可能性が強い。
 そうなると、卑弥呼の墓としてきわめて有力になってきた箸墓と、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の墓は、すぐ隣り合ったきわめて近い位置関係にあるということになります。ちょうど纏向遺跡を挟むように南と北に位置しているわけです。

  しかも、邪馬台国と大和朝廷は、単純に地理的に距離が近いというだけではなく、時間的にも非常に近いということがわかってきました。最近の弥生時代と古墳時代の編年研究では、邪馬台国と初期大和朝廷は、時間的にほとんど繋がっているといってもいいほどです。卑弥呼の死(3世紀中ごろ)を境にして、大和盆地で巨大な前方後円墳が造られ始めるという現象があるからです。
 そうなると、大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えてみたくなるのが自然というものです。幻の邪馬台国が、思いがけず日本の古代史のなかで、もう少し具体性を帯びてきます。
 ところが、邪馬台国と大和朝廷の関係は、実際のところ、まったく明らかではありません。系譜として連続しているのかどうか、それもよくわからない。邪馬台国がそのまま連続的に発展して初期大和朝廷(三輪王朝)になったのか、そうではなく、邪馬台国と大和朝廷は別系統の王朝なのか、そこがわからない。
 不思議なことに、「記紀」にはそのあたりのことが何にも語られていないのです。むしろ、箸墓に葬られた百襲姫と、崇神天皇の背後には、何か不穏な空気があります。邪馬台国から大和朝廷へという時代の転換には、どうも秘密があるらしい。女王卑弥呼と崇神天皇、邪馬台国と大和朝廷をめぐるミステリーが、まさにここにあるわけです。


     記紀には邪馬台国の記述がない

 考えてみるとかなり変なことなのですが、「記紀」には邪馬台国のことが何も書かれていません。邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与も、男弟の存在も、何にも書かれていません。
 なぜでしょうか。
 ここには絶対に軽視されるべきではないある重大な秘密があるといえます。
 『魏志倭人伝』には、邪馬台国や卑弥呼ばかりでなく、当時の日本の様子が具体的に描かれています。しかも、『魏書』というれっきとした王朝の正史ともいえる史書に書かれています。それなのに、当の日本の「記紀」には、それを思わせる記述がない。そもそもこれ自体がおかしなことです。

魏志倭人伝

魏志倭人伝(三国史・魏書・東夷伝・倭人条)

 8世紀に編纂された「記紀」は、日本の歴史を神代にまでさかのぼって書かれたもので、特に『日本書紀』は日本におけるまさに正史です。そこには本当なら2〜3世紀頃の邪馬台国のことは書かれていなければなりません。初期大和政権の誕生をもって、つまり古墳時代に入って前方後円墳体制ができあがる時期をもって、国家の始まりとするなら、その直前に存在したのが邪馬台国です。中国の史書に「30の国を支配し、女王卑弥呼の都するところ」とまで書かれている内容は、「記紀」には、本来、卑弥呼の実名入りで書かれているべき事柄です。ところがそれがない。
 しかし、よく見ると、とても奇妙な記述が何箇所かあるのです。


      「記紀」の立場

 「記紀」の編者たちにとっては、大王(天皇)家は、いうまでもなく神代から続く日本で唯一の正当な王朝でなければなりません。
 ところが、彼らにとって最も気になったことは、歴史の本場、中国の正史に「倭国」の「女王」として、邪馬台国と卑弥呼の名がすでに堂々と述べられていることです。中国の『魏書』に「倭国には女王がいた」と書いてある。
 当時とすれば、中国はあこがれの文化の国、知識の供給源であったばかりか、文字そのものを輸入した国でもあります。その中国の史書に邪馬台国の存在が書かれている。すでに世界から認められている正当な倭国の王朝、それが邪馬台国だといえます。

 しかし、「記紀」の編者たちにとっては、それはどうもおもしろくないことだったらしい。むしろ、目障りでさえあったのではないでしょうか。
 「記紀」の立場というのは、いうまでもなく、大和政権を正当化したいということに尽きるわけです。ちょうど「記紀」が成立する頃、「日本」という国号や、「天皇」という呼び名が生まれてきます。国家としての形態をきちんと整えなければならない、歴史もまとめておかなければならない、そういう時期です。
 そういう時代の知識人の代表である「記紀」の編者たちは、なぜか、邪馬台国や卑弥呼という名前には触れたくなかったのです。


         なぜ卑弥呼の名がないのか

 しかし、『日本書紀』には、思わぬところに卑弥呼の存在が、じつはすべり込ませてあります。崇神天皇から数えて4代あとの仲哀(ちゅうあい)天皇の后、神功皇后(じんぐうこうごう)のところで、彼女の治世39年に、分註として次のように述べられています。

 ・・・・『魏志』によると、景初3年6月、倭の女王は使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申しでて、洛陽に至ったという・・・・

 ここにある『魏志』とは、もちろん『魏志倭人伝』のことです。同じような分註としての記述が第40年、第43年にもあります。
 「景初3年6月、倭の女王が帯方郡に使いを送った」とは、まさしく邪馬台国の女王、卑弥呼のことにほかなりません。こんなことが『日本書紀』には、こっそりと分註という形で書かれているのです。
 これまでの研究で、この分註は後の時代に書き込まれたものではなく、『日本書紀』成立当初から書かれていたと考えられています。つまり、「記紀」の編者たちは、ちゃんと『魏志倭人伝』を読んでいて、卑弥呼のことも、邪馬台国のことも知っていたわけです。
 でも、その書き方がちょっと妙で、わざわざ「『魏志』によると」と断ったうえで、神功皇后の治世の間に、「倭の女王が使いを送ってきたと中国の史書は書いていますよ」と他人ごとのようにいっています。「我々にはよく知らないことですが」とでもいいたげな雰囲気です。
 しかしそうはいっても、『日本書紀』の編者たちは、暗に、神功皇后を卑弥呼とみなしています。神功皇后という人物に、卑弥呼という歴史的存在を重ねようとしているのです。

 『日本書紀』の編者たちの年代観では、神功皇后の治世の時期が『魏志倭人伝』にある邪馬台国の卑弥呼時代に当たると考えていたようです。しかし、分註で曖昧にほのめかしても、邪馬台国の名も、卑弥呼の名も出さず、邪馬台国そのものには知らんぷりをしています。「魏志によると」などという書き方自体、かなり不自然です。


       神功皇后が卑弥呼?

 もちろん神功皇后の時代では、卑弥呼の時代に年代が合わないのはいうまでもありません。神功皇后という女性は、実のところ、実在した人物かどうか疑われているのですが、仮に実在したとしても3世紀末〜4世紀半ばの人物です。2世紀末から3世紀中ごろまでの卑弥呼とは、百年ほど離れています。
巫女の埴輪(6世紀)  もともと「記紀」の記述には、政治的な作為が強いと指摘されているのですが、卑弥呼と神功皇后の間にも、何やら不可解な作為がプーンと感じられるのです。

 『日本書紀』の年代観は、60年でひとめぐりする中国の干支暦のふたまわり分、つまり120年分古く取っていることがわかっています。中国の暦や出来事を参考にして、日本の歴史を120年分古く取ったらしい。日本にはまだ正確な暦や記録がなかったためにそうなったのか、わざと古くみせるために意図的にそうしたのか、もちろん今ではわかりません。
 しかしいずれにしても、『日本書紀』の編者は、神功皇后という人物に邪馬台国の女王、卑弥呼を仮託しようとしています。何のためにそんなことをする必要があったのでしょうか。

 ちょっと弁解じみたことをいえば、8世紀に「記紀」が編纂された頃には、すでに邪馬台国の記憶がほとんど残っていなかったという事情があったのかもしれません。自分たちの国の記録にも、記憶にもそれがないのに、歴史を記録することにかけては本場の中国の史書に、「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が述べられている。そのために仕方なく、神功皇后という女性を創出し、辻褄(つじつま)を合わせておいたということかもしれません。
 さらには、「邪馬台国」といい、「卑弥呼」といい蔑視をこめたような名前になっているのを嫌って、そんなことをした可能性もあります。


     神功皇后という架空の人物を創作

 一方、そうではなく、もっと強い作為があった可能性もあります。邪馬台国や卑弥呼の存在そのものを日本の歴史から消してしまったと考えることもできるのです。神功皇后という架空の人物をつくることで、卑弥呼を大和政権の系譜に強引に押し込んでしまう。つまり、事実上、日本の歴史の中から、邪馬台国の存在を消してしまった。そのようにみることだって、できるわけです。
 神功皇后という女性は、その名前が象徴しているように、何とも勇ましい女傑として描かれています。まるで、ギリシア神話の戦う女神のように勇ましいのですが、逆に、勇ましすぎて、どこか漫画みたいなところがあります。
 神功皇后は、北九州の筑紫で夫の仲哀天皇が死んだ後、みずから軍を率いて朝鮮半島に出兵するという行動派の女性です。その様子が普通ではなくて、彼女の乗った船は、波や風はおろか、海の魚にまで持ち上げられ、新羅の国土の中まで運ばれます。それを見た新羅の王は、「神の国の神兵がやってきた」と白旗をあげて降伏し、「服従して、馬飼いになりましょう」などという始末。しかし実際には、そんなに都合よく物事が運ぶとは、ちょっと考えられません。
 また、彼女は新羅への出兵にさいして、お腹の中に子を宿しているのですが、遠征中に(遠征の直前とも)子供が生まれそうになると、腰に重い石を縛りつけてそれを押さえ、北九州の筑紫に戻って、ようやく出産するという具合です。その子供がのちの応神天皇です。このあたりは、たしかに、どうも白々しい。
 神功皇后はまた一方で、神がかりとなって神託をくだす巫女的な女性としても描かれています。どこかで邪馬台国の卑弥呼を思わせるのです。さらに彼女は、30代の前半、仲哀天皇の死によってみずから政務を取り始め、百歳で死ぬまでに60数年間も政権の中枢にいたことになっています。これも卑弥呼が60年間ほど女王であった姿と重なってきます。


    倭人伝の記述を知っていた編者たち

 こうなってくると、『日本書紀』の編者たちは、『魏志倭人伝』の記述をじつによく知っているし、『魏志倭人伝』の記述に合うように神功皇后という女性を扱っている、と考えないわけにはいきません。
 このようにさりげなく辻褄を合わせたり、分註のなかで卑弥呼の存在をほのめかしたり、細かな細工をしていますが、しかし、正面きって「神功皇后は卑弥呼ですよ」と、彼らは言うのではない。
 それはそうでしょう。架空の人物を実在の人物に重ねること自体に無理があります。「記紀」は一方で、日本の正史でもありますから、あまり見えすいた嘘を書くわけにもいかなかったのでしょう。

 歴史的に見ると、3世紀の邪馬台国の時代には、倭国の軍隊が朝鮮半島に出兵したような事実はありません。そもそも当時はまだ、朝鮮半島に新羅という国は建国されていないのです。ですから、この点でも神功皇后を卑弥呼に重ねるのはかなり無理があります。
 ところが、4世紀の後半ごろなら、倭国の軍隊が百済救援のために朝鮮半島に出兵していたことは、高句麗の碑文から知られています。何度か新羅や高句麗との戦いがあったようです。ただし、神功皇后に相当するような日本の天皇か皇后に率いられた軍隊が、朝鮮半島に出兵したという事実はありません。
 神功皇后を思わせる人物といえば、6世紀に斉明天皇という女帝がいて、有名な白村江の戦いの2年ほど前に、百済救援と新羅攻撃のため北九州にまで遠征したケースがあります。神功皇后はどうもこの女帝がモデルになっているのではないか、といわれています。そこに卑弥呼もダブらせてあるわけです。
 さらに、初期の大和朝廷(三輪王朝)の天皇は男性ばかりで、女帝や女王などはいません。やっぱり神功皇后の記述自体がかなり嘘っぽい。そいうことになります。


      歴史から邪馬台国を消す

 もう一度考えてみましょう。「記紀」には、なぜ邪馬台国も、卑弥呼の名前もないのでしょうか・・・・。
 それは前にも述べたように、蔑視をこめたような呼び名のせいかもしれないし、あるいは、邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に朝貢したように書かれているから、そのへんが大和政権としてはおもしろくなかったのかもしれません。
 しかしおそらく、理由はそれだけではないでしょう。
 当時の大和政権は、天皇を頂点とするピラミッド型の社会システムを懸命に構築しようとしている時期です。そんな彼らにとって、たぶん卑弥呼の存在はきわめて目障りだったと考えられます。
 それはなぜでしょうか・・・・。
三角縁神獣鏡  もし、邪馬台国がどこか九州あたりの狭い地域の小さな部族国家で、卑弥呼はその女酋長のような存在であれば、大和政権としては放っておけばいいことです。中国の史書も、そんな小さな国のことを、わざわざ倭国の代表のようには書かないでしょう。
 しかし現実には、邪馬台国は30ほどのクニを統合する倭国の代表で、卑弥呼はその女王として中国の正史に述べられています。小さなクニの小さな部族国家などではありません。だからこそ、魏の王朝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授け、銅鏡百枚をはじめ、多くの贈り物を与えるという、当時の中国外交としては異例な待遇をするのです。倭国を代表する正当な王権だったからこそ、そこまでしたのです。


       邪馬台国と大和朝廷の格闘

 「記紀」の立場に立てば、中国の史書に載ったほどの正当な邪馬台国は、当然、大和朝廷の系譜のなかに存在していなければならない。そういうことになります。そうでなければ、大王家が神代から続く正当な王朝とはいえないからです。どこかに卑弥呼を思わせる人物を入れておかないと恰好がつきません。
 そこで「記紀」の編者たちは、神功皇后という女帝を創ることで『魏志』に擦り寄ろうとしたらしい。まさに卑弥呼を彼らの系譜に取り込んだわけです。ところが、彼らには一方で、邪馬台国という名も、卑弥呼という名もなぜか出したくないという思いがある。素直にそれを受け入れられない事情が「記紀」の編者たちにはあるのです。
 だからこそ、「『魏志』によれば云々・・・・」と、分註のなかで曖昧に匂わせるような、ぼかした表現をしているのです。

 そう考えると、これはもう確信犯に見えてきます。「記紀」がことさら邪馬台国や卑弥呼の存在を無視しているように見えるのには、じつは大きな理由があります。
 垣間見えるのは、邪馬台国と大和朝廷の間には、どうもギクシャクした関係がありそうだ、ということです。邪馬台国から大和朝廷へという流れは、あまりスムーズではなく、何か大きな格闘があるように見えます。たぶん、大和政権の系譜と、邪馬台国の系譜は違うからです。両者の間には、ひょっとしたら王朝の交代か、さらには王権の簒奪があった可能性があります。大和朝廷は、邪馬台国から連続的に発展した政権ではたぶんないし、正当な後継者でもない。
 「記紀」の編者にとっては、神功皇后という架空の人物を創出することで、卑弥呼の存在はもちろん、邪馬台国そのものを歴史から塗り消してしまう必要があった。そう考えられるのです。(2004/4/17)


          

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