ひとりごと@

誇りを胸に 2004.7.17
 対戦相手が決まると、選手は過度の緊張を強いられる。しかし、開会式で相手校の選手と対面すれば、お互いが全力を尽くそうと、晴れ晴れとした気持ちへと変わるらしい。開会式も終わった。3年生にとっては、最後の戦いがはじまる。結果を求めず、堂々と戦ってほしい。優勝した者が人間的に優れていて、負けた者は優れていないとか、そんなことは決してないのだから…。高校野球をやりとげたという「誇り」を胸に、全力を尽くせばそれでいいのだ。

涙の球場係 2004.7.14

 夏の大会の球場係は、基本的には敗れた地元チームの1、2年生が行うことになっている。本校では初采配となった6年前の夏、米子市民球場で行なわれた開幕ゲームに敗れ、さっそく次の日から球場係をすることになった。当時は部員が少なく、負けたばかりの3年生にも球場係を頼まなければならなくなった。3年生8人といっしょに、それから1週間ずっと、スコアボードの係をした。私は彼らを勝たせてあげられなかったという罪悪感にさいなまれながら、彼らと正面から向き合うことになった。そのあいだ、彼らがいろいろな話をしてくれた。みんなで「山陰夢みなと博」に行ったこと。広島遠征に行ったこと。思い出が次から次へと飛び出した。
 すると、突然みんな黙ってしまった。「悔しさに耐えながら球場係をした経験が、いつか役に立つときがくるよ」。私はそう慰めることしかできなかった。

壮行式おわる 2004.7.12
 今日の午後、体育館で夏の大会の壮行式が行なわれた。2、3年生部員の入場行進につづいて、主将の決意表明があった。主将は「甲子園」という言葉を1回も用いなかった。体育心理学に関する本によると、連勝を続ける選手の多くは、結果を追い求めようとはせずに、そのプロセスに集中することによって、目標を達成しているという。そういった意味で、今日の主将のコメントは適切だった。最後に、全校生徒へ感謝の意味をこめて、大会歌「栄冠は君に輝く」を全員でうたった。

Singlesの精神 2004.7.8
 テニスやバドミントンなどの1対1で戦う試合形態をシングルスという。そのスペルは、Singlesであり、複数をあらわす「s」がついている。相手の存在があるから複数形になるのだという。つまり、この「s」には、対戦相手を尊重するという精神がこめられている。相手がいて、はじめて自分も全力を尽くせるというわけだ。
 夏の鳥取大会の組み合わせが今日きまった。Singlesの精神により、お互いがベストプレーをすれば、それでよいのである。全力で闘志をぶつけることが、相手に対する礼儀だと私は考えている。

背番号の話 2004.7.7
 野球選手にとって、背番号はとても神聖なものである。
 小学校3年生のときに、はじめてつけた背番号は「37」であった。だから、初心を忘れないようにと、大学1年生から3年生のときまで、再び「37」をつけていた。そして今でも、その番号を大切にしている。甲子園に出場したときから今でも使っている、アフターシューズのベロの裏にも「37」と記してある。野球をはじめたときの謙虚な気持ちを忘れないようにするためだ。
 今夏より、県大会では甲子園と同様に、白地に黒数字の背番号をつけることが、全国的に義務づけられるようになった。その新しい背番号を配布する日が近づいてきた。しかし、背番号をもらえない選手のことを考えれば、監督としては苦しい一日となる。
 先日、監督就任時に主将を務めてくれた細田君(大卒2年目)が、軟式野球チームのユニフォームを着て、練習を手伝いにきてくれた。「背番号の13には、なんか意味でもあんのか?」と私が聞くと、「だって、監督さんの大学時代の背番号じゃないですか。だから自分は大学でも13をつけていました」と答えた。
 私は大学4年生のときだけ、背番号「13」をつけていたことを思い出した。

シード校になると強い米子松蔭 2004.7.6
 1997年8月から監督を務めるようになって、春・夏・秋を合わせれば、シード校として大会に臨むのは、今大会が8回目となる。過去7回の戦績はというと、優勝2回、準優勝3回、ベスト4が2回であり、すべてがベスト4以上に進出している。なお、準決勝での勝率は、7割1分4厘となる。このデータから見ても、メンタルトレーニングによる実力発揮度の高いチームが、米子松蔭の伝統だと分かる。今年は、多様なメンタルトレーニングを積んでいるので、さらなる躍進が期待できそうだ。

3年生だけの最後の試合 2004.7.4

 今日の午後の試合は、3年生にとってのホームグラウンド最終戦となった。そのため、ふだんは出場機会を与えていない選手をふくめ、8人いる3年生全員をフル出場させた(1ポジションだけは2年生が順番に出場)。さらに、いつもは登板することのない3年生5人を交互にマウンドへ送り込んだ。彼らは精一杯のバッティングと、精一杯のピッチングを展開した。彼らにとって今日の出来事は、練習試合の1シーンにすぎなかったかもしれない。しかし、この試合のもつ重みも、マウンドに上がった理由も、いずれ分かってもらえる日がくると信じている。

パープルの意味 2004.7.2
 米子松蔭高校野球部のファーストカラーは、パープルである。これは、前任の監督が明治大学野球部の出身だということに由来している。監督へ就任したときに、ユニフォームを変えたらと、アドバイスをする人もいたが、ユニフォームが変われば、卒業生が応援へ来たときに、さびしい思いをするんじゃないかと考え、パープルのチームカラーを継承することにした。
 中学生のとき、上田知華+KARYOBINの歌う「パープルモンスーン」がヒットした。自分を冷静に見つめることができれば、次の朝には素敵に変身しているというのが歌詞の要旨であった。はたして、今春より変身を遂げた米子松蔭の「パープルモンスーン」が、夏空の下で吹き荒れることはあるのだろうか。

オレンジジュースとトーストの味 2004.7.1
 小学6年生のリトルリーグのとき、ショートを守っていた私の悪送球によって、試合を落としたことがあった。試合後、コーチに呼ばれ大声で怒鳴られた。両親以外から本気で怒られたのは、おそらくそのときが初めてだった。後日、私はBチームへ降格となった。練習後、コーチが喫茶店に行こうと言った。「何でもいいから、好きなものを食べろ」。私はオレンジジュースとトーストをたのんだ。コーチが何を言ったのかは覚えていない。しかし、そのとき飲んだオレンジジュースの甘酸っぱさと、トーストの温かさだけは、27年たった今でも、はっきりと思い出すことができる。

魂をぶつけ合った絆は永遠であるB 2004.6.30
 先日、教え子の結婚式があり、九州へ行ってきた。多くの同級生が茨城から駆けつけていた。彼らは、衣装をそろえ、結婚闘魂行進曲「マブダチ」を歌いながら、必死になって踊っていた。一生懸命な彼らの姿が、一瞬、高校野球をしていたときの彼らと重なった。とても懐かしい気持ちになった。花嫁の手紙が終わり、教え子の謝辞が終わり、いよいよ私の出番となった。「なぜ、大学のときの仲間や、高校のときの仲間が、こんなにもたくさん集まってくれたか分かるか?」。私は聞いた。「魂をぶつけ合った仲間の絆は変わらないんだよ。全力を尽くした仲間の絆は変わらないんだよ」。私は答えた。そして精一杯の大きな声で、バンザーイと3回さけんだ。

パジェロJ−TOPと、G−SHOCK 2004.6.24
 私が乗っているグリーンのパジェロは、J−TOPと呼ばれるオフロード車である。後部座席が幌になっていて、天気のよい日には、オープンカーとして走ることができる。私は、J−TOPのそういうところが好きで、10年前に手に入れ、そして今でも乗りつづけている。すでにJ−TOPは、製造が中止となり、街ではほとんど見かけなくなった。
 私が愛用しているグリーンのG−SHOCKの腕時計は、前任校を退職するときに、国語科の先生方から、送別旅行の夜に贈られたものである。その時計も、身につけるようになってから10年の月日が経つ。
 J−TOPとは、日本最北端の宗谷岬まで一緒に走った。G−SHOCKとは、甲子園の土ぼこりを一緒にかぶった。ふたりとも、まだまだ私に付き合ってくれるようである。

涙の抗議 2004.6.20
 小学3年生のとき、クラスで「キングスパイダース」という名のチームを創った。リトルリーグの選手だったということもあってか、私はそのチームの監督となった(そのときから、監督と呼ばれていた)。当時、南海ホークスの野村克也が選手兼監督で活躍していたこともあり、私は四番でキャッチャーを務めることになった。
 10月10日の体育の日に、8クラスが参加する3年生の野球大会が行なわれた。わがチームは、1回の表に19点を取られ、その裏は三者凡退で無得点となった。その瞬間、球審がゲームセットを宣告した。私は大会要項には、コールドゲームは3回10点差と記してあるじゃないかと、泣きながら抗議をした。しかし受けつけてもらえなかった。そのときからである。私の反骨心がメラメラと燃えはじめたのは…。

高校のとき、最も印象に残った先生 2004.6.15
 高校時代、剣道部の監督を務める、とても恐ろしい体育の先生がいた。授業のチャイムが鳴る前に、準備運動を終えて整列していないと、蹴りをとばしてくるのであった。
 剣道の授業のときだった。素人試合をしていた私は、「おまえは誰に剣道を教えてもらっているんだー」と怒鳴られ、防具の上からだが、竹刀で十数発もぶっ叩かれた。
 次の春、その先生が転勤することになった。離任式のとき、先生がステージの上から、別れの挨拶をはじめた。すると先生が泣き出した。体育館は騒然となった。ステージから、やっとのことで下りる先生に、剣道部員が駆け寄り、先生の胴上げをはじめた。体育館は大きな拍手につつまれた。先生からぶん殴られていた連中も、一生懸命に手をたたいていた。私は先生と剣道部員をうらやましく思いながら、その胴上げを遠くからながめていた。

魂をぶつけ合った絆は永遠であるA 2004.6.14

 
本校の高市先生は、松江北高校のエースピッチャーであった。横浜の大学を卒業したあと、私と同じ時期に、ある私立高校へ赴任した。私が25歳、高市先生が23歳の春のことである。荷物が届くまでのあいだ、しばらくは一つの部屋で、二人は寝泊りすることとなった。私が野球部の監督を務めるようになったときに、責任教師として一緒にベンチの中にいてくれたのも高市先生である。
 その後、私が進学したときも、本校に赴任してからも、年に一度は必ず会っていた。結婚披露宴のときには、友人代表として歌をうたってもらった。楽しくて、ほろ苦い青春時代をともに過ごした仲間と、縁あって再び一緒の学校で働くことになった。私のいいところも、だめなところもすべてを知りつくしている球友である。


革命は血を流す 2004.6.13
 
教育実習生の杉森君が、大学で着ているベースボールTシャツの背中には、「革命は血を流す」という言葉がプリントされている。聞くと、彼らを送るときに卒業記念誌へ残した、私の言葉の引用だという。
 4年前の夏、私たちは犠打1つという野球で優勝旗をつかんだ。そのすぐあと、ご丁寧に、年配の方から犠打を推奨する手紙を複数いただいた。要約すると「おまえは伝統ある鳥取県の野球を壊すのか」「おまえたちの野球は邪道である」というような内容だった。
 犠打には、必要な犠打と、監督が批判を受けないがための不必要な犠打の2種類がある。バントの是非論は、ここでは割愛するが、野球に100%正しくない戦術など、そもそも存在しないと思っている。すべての戦術は○(まる)でもあり、△(さんかく)でもあり、□(しかく)なのである。それを犠打が○で、否は×(ばつ)だと表現するのは、羞恥心のない怠惰な人間の言うことである。
 ある外国映画の中で、正義をふりかざした人が処刑されるというシーンがあった。革命を起こすために自らの命を犠牲にしたのであった。「革命は血を流す」とは、そういうことである。
 あの夏、私たちが、打って打って打ちまくるという、自分たちの野球を信じて戦い、傷だらけになりながら甲子園出場を勝ち取ったという事実は、永遠に消えることはない。


忍耐・我慢・辛抱 2004.6.11
 
野球グラウンドの入口に建つ、甲子園出場記念碑にある大きなボールには、忍耐・我慢・辛抱と彫ってある。その言葉は、30歳を目前に、いちど野球部の監督を辞め、ふたたび学生となったときに毎日ながめていた言葉でもある。まわりの仲間はすでに結婚を終え、子供と戯れている時期に、私は高校生と同じくらいの時給でアルバイトをし、精神的にも肉体的にも、いつもおなかを空かしていたのであった。いつかこの努力が報われるときがくる。それまでは忍耐・我慢・辛抱だ。そう自分に言い聞かせていた。そして今でも物事が思いどおりにいかないときには、心の中でそう叫ぶのである。

ああ懐かしの教育実習 2004.6.10
 
杉森克彦君(2000年度主将)が教育実習にやってきた。野球部の教え子を教育実習生として迎えるのは、2年前の細田庸一君(1998年度主将)以来、2度目のことである。
 実習生を迎えるたびに、自分の教育実習を思い出す。私は出身中学で実習を行なった(中3に弟がいた)。当時の大学野球部員のヘアースタイルといえば、角刈りが定番であり、例外なく私もバリバリの角刈り(高倉健なみの…)であった。女子生徒は私を恐れ、結局なつくことなく実習は終わってしまった。最後のホームルームが終わると、数人の男子生徒が近づいてきて、「先生、うちの女子、今日は全員がポニーテールだったって知ってましたか?」と聞いた。 「えっ?」。
 ロングホームルームのとき、男子生徒から「好きな女性のタイプは?」と尋ねられ、「ポニーテールの似合う人」と答えたことを思い出した。急いで窓から、部活に走る女子生徒を見ると、ショートカットの子までもが、髪の毛を後ろで束ねているのが見えた。私は黒板に大きな文字で「ポニーテールありがとう」と書き、学校をあとにした。女子生徒のみなさん、あのとき気づいてあげられなくて、すみませんでした。


ピッチングのつづきを未来で… 2004.6.9
 
中学校の総体を見に行くと、懐かしい顔に出会う。今日は何年か前の野球部の卒業生と出会った。聞くと弟が登板するという。「松蔭で教わったことを弟にアドバイスしています」。弟のピッチングフォームは、昔の彼そのままだった。
 卒業生の彼は、高校の途中からピッチャーとなり、打たれるたびに「ずっと走っとけ」と言われても、腐らずに黙々と努力を重ねる選手だった。彼の公式戦初登板は、最後の夏の県大会準々決勝の大舞台。結果的には甲子園へ出場することになるチームを相手に、1点さえも許さなかった。「最後の試合のピッチングの続きを未来で展開できるよう努力していきたい」と卒業記念誌には記してある。彼は「松蔭で学んだことが、今とても役に立っています。とくにメンタルトレーニングが…」と笑った。
 車で球場をあとにしようとすると、遠くから深々と頭を下げる彼の姿が見えた。

母校野球部の春連続Vに思う 2004.6.8
 補欠選手だった大学時代の私は、練習が終わると野球場から下宿先までの5km以上ある真っ暗な道のりを独りで走っていた。いつも「なにくそ」という気持ちで走っていた。今の自分を支えているものは、まちがいなく、そのときに培った「なにくそ」という負けん気である。
 旭川大学野球部が2年連続して春の神宮大会へ出場することになった。昨年の初出場のときは、いても立ってもいられず、米子から飛行機に乗り、神宮球場へ駆けつけ、声をからして母校の後輩たちに精一杯のエールを送った。何となく大学時代の努力が報われたような気がして、うれしくなった。そんな清々しい気持ちになれたのも、良い選手に恵まれ、今でもこうして野球を続けていられるからだと思う。私も母校の後輩たちに負けないよう、これからも「なにくそ」精神でがんばっていきたい。
 旭川大学野球部のみなさん、昨年の夏休みには本校の野球部員が合同練習でお世話になりました。がんばれ後輩たち!

竹本直行コーチのこと 2004.6.7
 監督に就任してから4季連続初戦敗退という苦しいとき、本校野球部のOBである竹本直行コーチが、練習を手伝うと名乗り出てくれた。次の春、そんな弱いチームがシード権を獲得し、県大会ではベスト4に入り、そして米子商業の快進撃は始まった。まさにチームの福の神だった。竹本コーチは、頑固な私の性格や、富士山を目指そうとする野球を理解しようと努め、勝利のときにはともに笑い、敗北のときにはともに歯をくいしばってくれる戦友だ。人一倍つよい母校愛のもと、自らの余暇をすべて本校野球部のために捧げようとする頼もしいOBである。竹本コーチの気持ちに応えるためにも、一日でも早く再び甲子園出場を勝ちとりたいものだ。

魂をぶつけ合った絆は永遠である 2004.6.6
 前任校の野球部の教え子たちが、次々と結婚していく。練習試合がなければ、茨城であろうと、福岡であろうと、必ず行くようにしている。そして、当時のエピソードを披露する。テーブルには当時の選手がたくさん顔をならべている。高校を卒業して、それぞれの道を歩み、多くの苦労を経験したと見えるたくましい顔である。苦しくて楽しかった高校野球の思い出が、彼らの生きる源泉となっているようにも思える。私にとっても、彼らと過ごした青春の日々は、きらきらと光る宝物のような時間であった。ともに喜び、ともに怒り、ともに涙した。魂をぶつけ合う時間を共有できたからこそ、10年の時が流れても笑顔で再会できるのであろう。

とじる