ひとりごとH

2008.7.13 米子松蔭のユニフォーム
 
先日の試合には、多くの卒業生が集まってくれた。ほとんどの者が、胸にパープルで「SHOIN」と入ったユニフォームを着用していた。卒業生が勤める会社の社内報を目にした方が、その卒業生のプロフィールが目にとまり、見ると宝物の欄に「米子松蔭のユニフォーム」と書かれてあったと伝えてくれた。卒業生にとって、SHOINのユニフォームは、懸命にがんばっていた青春時代の象徴なのかもしれない。
 私にとっても、ユニフォームは宝物である。。現役時代のユニフォーム、鹿島学園のアイボリー地にネイビーの縦じまが入り、左胸に大きくネイビーで 「K」、その下に小さく「GAKUEN」とゴールドで刺繍されたユニフォーム。甲子園に行ったときの米子商業のユニフォーム。今でも衣装ケースの中へ大切に保管してある。それぞれのユニフォームは、私が生きてきた証であり、そこには闘志がいっぱい詰まっている。
 進学するために鹿島学園を去るとき、卒業生に「これと同じデザインのユニフォームで復活するからな」と言い残した。本校の監督を引き受けることになったとき、「ユニフォームを変えてよい」ということは、赴任する前に確認しておいた。しかし、前任の監督が明治大学のOBということもあって、アイボリー地にパープルカラーのユニフォーム(当時)にしていたことがわかった。前任校と同じように、先輩監督の思いが、卒業生の思いが、パープルの中に宿っていることを知り、パープルカラーのユニフォームを継承していくことに決めた。ユニフォームは、そのチームの歴史の一部なのである。パープルカラーのユニフォームを、今ではとても気に入っている。かっこいいと思う。
 監督に就任して、およそ1年後に、ファーストユニフォームをアイボリー地からシルバー地に変更するというマイナーチェンジは行ったものの、アイボリー地の方は、セカンドユニフォームとして、練習試合や準公式戦では未(いま)だ活躍している。もちろん、パープルカラーは健在である。米子商業から米子松蔭に校名変更したときでも、胸に入る筆記体の文字を「BEISHO」から「SHOIN」に変えるにとどめた。参考までに「SHOIN」の「S」は、私がデザインさせてもらっている(なお残りの「H・O・I・N」はRawlings体)。
 SHOINのユニフォームを着た卒業生は、あのころの熱い思いをユニフォームに染み込ませたまま、スタンドの最前列でグラウンドに立つ後輩たちに、声援をおくってくれた。もしかすると、SHOINの高校野球というのは、永遠につづいていくものなのかもしれない。

2008.7.11 八剱先生を甲子園に
 
今春、八剱(やつるぎ)先生が定年退職された。八剱先生は、私が11年前に本校へ赴任する前から、野球部の副部長を務められていた。根っから野球の大好きな先生であった。八剱先生には、いつも助けていただいた。赴任したばかりの県外出身者の私には、鳥取の風は冷たく厳しく、校外の方や保護者の方から、非難を受けることがしばしばあった。しかし、どんなときでも八剱先生は、その風上に立ち、私にその冷たい風が当たらぬようにと、体を張って守ってくれた。ときには、理不尽なことを言ってくるわけの分からない人に、声を荒げて立ち向かって行ってくれた。
 八剱先生お元気ですか? いよいよ明日から夏の大会がはじまります。こんなにも長く監督を務められているのも、八剱先生のおかげでもあります。八剱先生がいらっしゃらなければ、私はやけくそになっていたかもしれません。「監督のどこが間違っているんだ」と、何度も叫んでくれたこと、一生わすれません。
 
八剱先生をもう一度、甲子園に連れて行くぞ!


2008.7.10 ありがとう卒業生
 
10年前の夏にサードを守っていた田口幸司くんが、グラウンドへ激励に訪れてくれた。「おぉ、たぐち」「お久しぶりです」「卒業してから初めてだろ、会うの」「はい、すみません」「もう28(歳)か?」「はい」。そのとき、ひとりの選手がやってきた。「この先輩はなぁ、おまえの2倍も怒られてたんだぞ」「かなり怒られましたね、はっはっはっ〜」。選手はどうリアクションをとってよいのか困惑していた。
 「でも楽しかったです。仕事でがんばっていけるのも、あのときの苦しい時間があったからです」。監督としての初めての選手が、彼らであった。私は彼らが最高学年になったときに、秋・春・夏と一度も勝利の喜びを味わせてあげることができなかった。さらには、最後の夏に負けたあと、「勝たせてあげられなくて悪かったな」と詫びるどころか、「社会人になったら、上司の期待に応えられる人間になれ!」と叱責してしまったのである。若かった私の愚かなる責任転嫁であった。そのことは、ずっと私の心の中に引っかかっていた。悪かったなとずっと思っていた。田口くんは、そんなことは、すっかり忘れているようだった。「監督さん、明日もまた来ます」「おぅ、待ってるぞ」「はい」。
 最近、卒業生がたくさんやってくる。伊藤英樹くん(99年度卒)、秋田良輔くん、入江徹くん(02卒)、岩村忠司くん、川上俊くん、多田真吾くん(03卒)、曽根大二朗くん、白石信幸くん、高岡佑太朗くん、中口一弥くん、米原聡一くん(05卒)、佐々木大輝くん、高橋健太くん、石田健宏くん、濱田竜也くん(06卒)、礒山拓郎くん、高野聖也くん(07卒)など・・・。みんな苦労をともにした仲間である(そういえば、00卒、01卒の甲子園組はなかなか姿を見せないなぁ)。彼らが現役のときには、グラウンドで談笑することなど、めったになかった。しかし、今ではお互いがあのころを懐かしみながら、笑顔で向き合うことができる。これでいいのだ。

 
5月から6月にかけて、選手は個人練習で30,000スイングをこなしてきた。卒業生の期待に応えられるよう、選手は結果を出してくれるであろう。卒業生のみんな、いつも応援ありがとう(高岡くん、いつもアーモンドチョコレートの差し入れありがとう)。

2008.7.4 行ってみせるぜ甲子園!
 
夏の大会がせまってきた。
 じつは前回、甲子園を決めた年は、大会前にチーム状態が万全というわけではなかった。三番打者(捕手)と、五番打者(中堅手)が、大会前の練習試合で死球により右腕を骨折。いずれもチームの要となる選手であった。捕手は腕の中に骨をつなぐボルトを入れたまま、急造の二塁手として、中堅手はテーピングで腕をかため、左翼手として、それぞれが骨折したまま、大会に出場させることになった。新たに捕手を務めることとなった者は、試合経験のとても浅い選手であった。
 ところが、初戦では二塁手(元捕手)の好プレーによって接戦を制し、決勝では左翼手(元中堅手)が最終回にフェンスへ激突しながら飛球を好捕(歴史に残る大ファインプレー)。捕手は投手を巧みにリード。文字通り「怪我の功名」によって、甲子園をつかみとった。そのときのチームとしての精神状態を推察すると、大会前にいろいろなことがあり、良い意味での脱力感があったように思う。言い方を変えれば、今できることをしっかりやらなければと、みんなの意識がプロセスに集中していた。勝利という結果は意識の外に追い出されていたのだ。その理想的な心理状態(IPS)が、多くのファインプレーを生み、適時打の雨を降らせ、好走塁の
嵐を吹かせたのである。

 
「監督の執念が選手に乗り移っていた」。決勝を見たある野球関係者は、BEISHOの躍進をそう表現していた。選手に、監督の執念を受け入れられるだけの器が、つまり甲子園に行くための大きな器が、みな備わっていたのである。
 いよいよ夏の大会がはじまる。最後まで選手を信じようと思う。甲子園に行くための大きな器を、きっともっているはずだ。

2008.6.5 打線の奮起に期待
 
年度期別チーム成績
を見ても分かるとおり、今年のチームはディフェンスのチームだと言える。今年度前期のチーム防御率も、今日まで2.22と秀でた数字を残している。甲子園に出場した平成12年度前期のそれをはるかに凌いでいるのだ。投手力は今のところ及第点。失策も31試合で32個と、今年も安定した守備力をキープしている。チームに足りないものは何か。攻撃力であろう。今年度前期のチーム打率は、今日まで.303と少し物足りない。アウトの内容も悪い。得点圏に走者を置いてポップフライ、三振。走者はそのままで、アウトカウントだけが増えるという状況が繰り返されている。それぞれが仕事をできずに苦しんでいるのだ打線につながりのある年は、仕事率も.530を超えているのに、今年は.466と5割にも届いてない。その数字が何よりの証拠である。打てば甲子園に行けると思う。夏の開幕まであと38日。打線の奮起に期待している。くりかえす。打てば確実に甲子園へ行ける!

2008.6.1 おばあちゃんの話
 
先日、伯耆大山駅前の交差点で交通指導を行っていると、一人のおばあちゃんが私に話しかけてきた。「野球部の子供たちに感謝しています」。聞くと、今春に卒業していった選手たちのことだった。練習の帰りに、いつもおばあちゃんに挨拶をしてくれたのだという。「ごくろうさん」とドリンクをあげたら、「ありがとうございます」と、しっかりとお礼の言葉を述べたのだという。それがとてもうれしかったのだと言われた。「私の方こそ、ありがとうだよ。あの子たちに会える日がうれしくってねぇ。冥土のよい土産になったよ。卒業するまでに、規律正しいあの子たちにもう一度会いたかった・・・」。しみじみとそう言われた。「あの子たちは、私のこと覚えていてくれるかなぁ」「覚えていますよ。彼らもおばあちゃんに感謝しながら、巣立っていったことでしょう。おばあちゃんとの出会いを励みにして、社会人で大学でがんばっているはずですよ。いろいろとお世話になりました」。信号が青になると、おばあちゃんは、ゆっくりとした足取りで横断歩道をわたっていった。

2008.5.14 兄の背中
 
本校の監督になってから10組の兄弟を指導してきた。兄が過ごした野球部で、弟が汗を流すことは素晴らしいことである。兄の姿をスタンドから見て、自分も兄のようになりたいと思ったのかもしれない。もしかすると兄と同じ経験を弟にもさせたいと、保護者の方が思ったのかもしれない。だとしたならば、本当にありがたいことである。
 私にも弟がいる。弟は夏の神奈川大会で4強入りしたときのキャプテンで、その実績の大きさからすれば、首都圏の大学に進めたはずであった。ところが、弟は私が過ごした野球部に入ろうと、あえて地方の大学を選んだ。そして、私の汗と涙がしみ込んだグラウンドで4年間を全うした。キャプテンとなり、首位打者を獲り、優勝に貢献した。他の強豪大学に進んでおけばよかったという悔いはみじんも感じられない。
 兄弟はいい。それぞれがたとえ反目し合ったとしても、間違いなく弟は、兄の価値観を受け継いで生きていく。そして兄は、弟の生き方のモデルになろうと努力していくのである。

2008.5.10 禍福はあざなえる縄のごとし
 勝利と敗北とは、縄をより合わせたように入れかわり変転するということである。春の県大会では、8季ぶり(春は5年ぶり)に初戦敗退を喫してしまった。それも、県大会では自身わずか2度目となるコールドのおまけつきである。秋の天国から、春の地獄へと一気に転げ落ちたのであった。ただ、春にきちんとした形で痛い目にあったことは、夏を制する上で無意味なことではないと考えられる。
 初めてのコールド負けのチームは、次のシーズンには中国大会へと躍進した。4年前の鳥取県の夏の覇者は、秋に優勝、春には初戦コールド負け(それも0−10)、夏には再び優勝している。今年のウチのチームはどういう道程をたどるのであろうか。「負けて覚える野球かな」という言葉がある。負けたから、あきらめてしまうのか。負けたから、がんばろうとするのか。その考え方ひとつで、進む方向はおのずと異なってくる。


2008.4.7 春休みの目標
 
スポーツにかぎらず、目標を立てるのは大切なことである。その際に、短期目標、中期目標、長期目標と段階を踏んで設定すると、目標達成への意欲がわくという。「目標を立てると脳が働く」「目標を立てた時点で、目標は半分達成されている」「目標は達成可能50%のものがよい」とか、目標を設定することの有効性を示唆する言葉は多い。
 リーグ戦の初戦、西部地区1位となった米子東高に1-2と惜敗した。わがチームはリーグ戦は、公式試合と同じようにベストメンバーで戦う。絶対に力をゆるめることはしない。初戦に負けたとき、チームの士気が下がらないようにと、私は「春休みの目標」を設定した。残りのリーグ戦を全勝し、「シード権をとる」。そのために春休みは練習の時間を調整し、練習試合も行わず、リーグ戦に集中させることにした。なんとか4連勝して、春休みの最後の日に行われるシード決定戦までこぎつけた。結果は境高に0-1でまたもや惜敗。目標の達成はならなかった。しかし、目標を設定したことで、練習に活気が生まれ、潤いのある春休みとなった。目標を立てると毎日が充実してくるのだ。
 翌日、全選手が自ら頭を1厘に刈り上げ、始業式に臨んで、大きな声で校歌をうたった。もうすぐ春の県大会がはじまる。秋と同じようにノーシードから勝ち上がろう。次の目標はそれで決まりである。


2008.4.6 ちょうどよし危うし
 
「早しよし、遅しわるし、ちょうどよし危(あや)うし」。すでに他界された前学園長の教えである。時間を守ることの大切さを説いた言葉である。本校の野球部でも、時間を守ることを厳しく指導している。遠征のとき8時に出発するとすれば、10分前の7時50分には、バスへの乗車を終えていなければならない。したがって、準備はもっともっと早くなるわけだ。何かのトラブルに備え、時間に余裕をもって行動する。その習慣は、社会人になってから、きっと役に立つはずだ。
 学校の近くに踏切がある。ときには、10分以上も踏切が閉まったままになる。春休みの朝に私は、その踏切で長いあいだ待たされることとなった。なかなか踏切が開かず、練習開始の時刻が迫ってきた。それでも開く気配がないのだ。私は車を停めたまま、急いで電話をさがし、学校に電話を入れようとした。そのとき、ようやく踏切が開いた。学校へ着くと急いで車を降り、グラウンドへ走った。2分前の到着だった。
 「ちょうどよし危うし」。その言葉がとても身にしみた、その日の私であった。

2008.3.30 恥ずかしい話
 
大学のとき、リーグ戦が終わったあと、「休みをいただきたい」と、選手みんなで監督に提案したことがあった。「勝ったから練習を休みにするとか、負けたから練習を休みにするべきだとか、おれは、そんな中途半端な野球は教えていない」。監督は激怒していた。自分たちの甘さを見透かされたようで、とても恥ずかしい気持ちになった。
 私たちのチームは、一部から四部まであるリーグの、はじめは一部に所属していたが、リーグで最下位となり、入れ替え戦にも敗れ、二部落ちという苦い経験を味わった。入れ替え戦に負けたあと、ロッカールームの片隅で監督が泣いているのを見てしまった。衝撃的だった。次の日、私たちは練習をした。監督は一塁側ベンチにすわり、いつものように指揮を執っていた。
 おれは、中途半端な野球は教えていない」。その言葉の真意が分かるようになったのは、大学を卒業してからである。今でも、ふとしたときに監督のその言葉を思い出す。同時にそのときの恥ずかしい気持ちも思い返すこととなり、青春時代の己の未熟さを省みるのである。


2008.3.29 伝えられなかった言葉
 
今月のはじめ、大学の先輩から、監督が入院したと連絡をいただいた。私はすぐに飛行機の予約を済ませ、北海道へと飛んだ。監督は札幌市内の病院に入っておられた。呼吸を助ける器具を装着されており、大変に苦しそうだった。私は監督に伝えられなかった言葉がずっと心の中にひっかかっていた。8年ものあいだ心の中にひっかかっていた。
 監督の耳元で私は叫んだ。「あさにしです。自分は大学を出てから20年たった今も野球を続けています。監督に教えていただいた野球を、やりとおしています。正しい野球を教えていただき、ありがとうございました。自分は、どんなことがあっても、監督の野球をやりとおします」。
 監督は、上体を起こしながら、何か言おうとした。器具をつけているので、声は聞こえてこなかった。しかし、私は監督が何を言おうとしているのか、その唇の動きからはっきりと読み取ることができた。「が・ん・ば・れ・よ」。
 ある人から「朝西監督は、何のために野球を続けているの?」と聞かれたことがあった。「大学のときの監督を喜ばせたいから・・・」。とっさにそう答えていた。そうなのかもしれない。
 私は、監督にまだ甲子園のウイニングボールを渡していなかった。「今度の夏は、がんばって、また甲子園に行きたいと思います」「また監督の声を聞きにまいります。はやくよくなってください」。監督は握っていた手を、ぎゅっと握り返してきた。
 今でも監督は何かと闘っているのだ。そんな監督の必死な姿を見て、自分も戦いつづけていくことを決意した。


2008.2.23 甲子園の可能性
 
今年の夏は、甲子園に行く可能性はあるのだろうか。ある。可能性はある。ただし条件つきとなる。
 本校は寮がなく、野球留学生は一人もいない。選手はすべてが自宅からの通学生である。したがって、たっぷりと練習できる環境にあるわけではないのである。日南、境港、安来から通っている者も多く、列車の時刻のこともあり、平日の全体練習は3時間の中で集中して行わなければならない。他のチームが1球を放っているときに、2球も3球も放らなければ追いつかない。
 どこで差をつけるか。登校してからの朝の個人練習と、帰宅してからの夜の個人練習である。思いつきでたまにやることなら、誰にでもできるが、毎日まいにち継続させることは難しい。その難しいことを全員で実行することが、甲子園に出場するための条件となる。甲子園に行きたければすればいいし、そうでなければしなければいい。ただそれだけのことだと思う。
 個人練習が正しくできれば、ぜったいに甲子園へ行ける。監督の仕事としては、選手がそういった自律の心がもてるよう、グラウンドと教室でしっかりと人間教育をすることだと思う。ルールを守らせる。部室をきれいに使わせる。勉強をしっかりとさせる。時間、挨拶、服装、整備、清掃、道具・・・。人間総体を鍛え上げるということだ。
 夏の甲子園に向けて、さあ、がんばろう!


2008.2.15 ヘイワ荘の青春
 
『トキワ荘の青春』という映画があった。トキワ荘の住人であった藤子不二雄、手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春など、いずれは偉大な漫画家となる若者の蛍雪時代を描いた、静かなゆったりとした青春映画である。最近、映画などを借りて観ようと思えば、DVDが主流となっているため、レンタルショップでは、VHS(ビデオ)が廉価で販売されるようになった。先日、『トキワ荘の青春』が売られていたので、なつかしく思い買ってみた。時間があるときに、またゆっくり観てみようと思う。
 私は大学時代、野球部の合宿所に住んでいた。合宿所は、平和荘、普学荘、静山荘などと別れており、私は初め平和荘という、トキワ荘に負けないくらいの、いい感じの古めかしい合宿所に住んでいた。風呂は故障して使えず、トイレはくみ取り式、台所は共同と、何もかもがイカしていた。3万円の家賃を住人7人(ほとんど同級生)で割ることになっていたので、1人当たりの家賃は、なんと4千3百円という信じられない安さとなった。それぞれが、6畳の部屋を使えたのだが、部屋はベニヤ板で仕切られているだけなので、となりの部屋のテレビの音や、いびきがまともに聞こえてくるというナイスな作りであった。
 私は入学してから2年間、その平和荘で暮らした。3年生になったときに、調子に乗って個室タイプの普学荘に移ったが、4年生の秋のリーグ戦を終えると、再び平和荘で暮らすことにした。大学生活の終わりは、やはりあの平和荘だろう。そう考えたからだ。卒業までの約半年間、私たちは練習もなくなり、講義を終えれば、夜中まで平和荘に集結して、大学生活の最後のときを楽しんでいた。
 北海道遠征のとき、『ヘイワ荘の青春』の舞台を訪れた。まだあった。私は、SHOINのユニフォームを着たまま、平和荘の前で写真を撮った。うれしかった。平和荘はあいかわらず、あの頃のままの、いい感じの古めかしさを辺りに漂わせていた。


2008.2.14 適切な練習時間
 
練習時間は、長ければ長いほどよい、というのは誤りである。長いほどよいというのは、知識のなさを表しているにすぎない。トレーニング効果を上げるためには、スポーツ科学に基づいた適切な練習時間(量)が求められる。短すぎてもダメだが、長すぎてもダメだということである。
 
指導者には、それを決めるための知識が必要とされる。長すぎる練習は、遅筋(赤筋)を発達させるのには適している場合もあるが、速筋(白筋)の発達を妨げてしまう危険性をともなう。スピードが養成されない恐れがあるということだ。さらには、個々人の出力エネルギーを低くさせるという弊害もみられる。肝心なところで、出力エネルギーを高くすることができなくなってしまうのである。
 長すぎる練習から、キビキビとしたチームはつくれない。キビキビとしたチームは、短すぎず長すぎない適切な練習時間の中で、正しい練習を継続してこなすことによって創り上げられる。


2008.2.14 レトロな校舎
 私はレトロな景色が好きだ。実家に帰ると、新横浜ラーメン博物館に必ず足を運ぶ。そこは昭和33年の町並みが再現されており、その町の中でラーメンを食べることが、楽しみの一つとなっている。
 「古い校舎だなあ」。本校に赴任したとき、まず初めにそう感じた。とくに前任校が、開校まもない学校であり、校舎が新しかったためか、なおさらその思いを強くした。正直いうと、さみしくなった。集中管理された空調設備、業者がピカピカに磨き上げた廊下、赤、青、緑色などでカラフルに色どられた階段、教室の鉄製のロッカー。前任校の光かがやく校舎が、懐かしく思えてしまったのだ。
 ところが、今では、古ぼけた大きなストーブも、生徒と先生が一緒になって磨きあげる古い廊下や階段も、そして教室の木のロッカーも、すべてが愛しく思える。映画『ALWAYS三丁目の夕日』『地下鉄(メトロ)に乗って』『フラガール』などに見られる昭和の景色が、昭和の匂いが、この学校のどこかには残っているようだ。レトロ好きな私は、いつのまにかレトロな校舎に居心地のよさを覚えていた。

2008.2.13 大海のサメ
 この前、野球の歴史に関する本を読んでいたら、興味ぶかい言葉を見つけた。「野球監督は、傷を負いながら大海を泳いでいるようなものである」。著名なメジャーリーグの監督の言葉だそうだ。つづきがあった。「いずれサメにやられる」。
 そうすると、私は鳥取で10年以上も大海を泳ぎ続けていることになる。「サメ」とは何なのか。大海を泳いだことのある人なら、説明をしなくても分かってもらえるであろう。私も、何度も何度も「サメ」に食われてきた。負傷しながら、大海を泳ぎ続けてきた。「サメ」をやっつけるために、気力、体力、知力をふりしぼって、ここまでやってきたのだ。ときには、武器も持たずに立ち向かい、重症を負ったこともある。近くに見える平穏な島に上がってみようかと考えたこともある。しかし、こうして遠泳を続けている。これが事実だ。
 泳いでいると、苦しくなるときがある。ふと、教え子たちの顔が思い浮かぶ。まだまだ泳ぎを止めてはいけないのだと、その顔が教えてくれる。


2008.2.12 律儀な男
 
年末になると、必ず彼が訪れる。4月になれば大学4年生になるということなので、3年連続して挨拶にきてくれていることになる。大学野球の様子を笑顔で話してくれる。卒業した者が、高校のときの監督に近況を報告しに来るのは、10年くらい前は当たり前のことだったように思う。しかし今は、当たり前ではなくなった。嘆かわしい時代である。だからこそ、彼の律儀さはよけい新鮮に映る。
 高校時代、彼はチームの中心選手であり、とても印象に残る選手であった。中心選手であるからこそ、彼には厳しく接したものだ。彼の立場から考えれば、あれだけ怒鳴られていたのだから、監督には会いたくないなと思うのが普通である。ところが、挨拶を欠かしたことがない。おそらく、ご両親がそういった教育をされる方なのであろう。野球に対して、深い思い入れがある方なのであろう。
 20代というのは、もっともチャラチャラしたい年頃である。茶髪、ピアス、ひげ、細い眉毛・・・。本校のグラウンドに足を運べる者も決して多くはない。野球人としての正しい身なりで、正しい風体で、グラウンドに戻ってこられる選手を、どんどん育てていかなければと思う。


2008.1.14 選手のための甲子園
 
30代のころは、自分が甲子園に行きたいから、生徒募集を熱心に行い、懸命に指導をしていた。しかし、今はちがう。選手が甲子園に行けるようにと、純粋に指導している。自分が…ではなく、選手が…甲子園に…という考えに、しだいになっていったのである。今の3年生からは、選手の勧誘も進んでは行わなかった。自分が甲子園に行きたいから生徒募集を行うということが、年を経るたびに卑しいものに感じられてきたからだ。だから、「自分で選んで来てください」というスタイルに変えたのである。きっと、自分のために…という純粋さの欠ける指導であったならば、21人という少人数では、県大会で優勝することなど出来なかったであろう。中国大会でも勝つことはできなかったはずだ。自分が甲子園に行くための指導ではなくて、選手が甲子園に行くための指導。一日一日を大切にして、がんばっていきたい。


とじる