| 青春のかけら(拡大版) 朝 西 知 徳 |

一枚の写真がある。弟とふたりで笑っている写真だ。甲子園を決めた日の写真である。その背後に中学1年生の少年がまぎれこんでいた。私と弟は逆光でグレーな顔をしているのに、後ろの少年の笑顔だけが鮮やかに写っている。
その少年が3年後、本校の野球部に入部してきた。今度は自らの手で甲子園を勝ちとるために・・・。ところが、同級生にいいピッチャーがいた。なかなか背番号1をつけられない彼に、私はやさしい言葉をかけようとはしなかった。それどころか「実力で奪い取れ!」と突き放した。それでも結果は出なかった。
最上級生になったとき、彼はキャプテンとなった。そして、3年生の春のリーグ戦で3つの勝ち星を挙げ、リーグ4連覇の立役者となった。春の県大会、1番を初めてつけた彼が、マウンドにいた。苦しい試合だった。彼の公式戦初勝利は、監督として公式戦40勝目となる記念すべき勝利となった。
写真にまぎれこんでいた日、彼はスタンドから試合を観ていた。「あのときのように、監督を胴上げしよう」と新聞にコメントが載っていた。一緒に甲子園へ行くことはできなかったが、彼があの日から、あのときから、ずっとその気持ちを変えずにいてくれたことを、生涯忘れずにいたいと思う。
彼が入部してくると知ったとき、覚悟を決めたんだなと思った。甲子園キャプテンを兄にもち、そのプレッシャーと戦おうとしているんだなと思った。ところが、彼の顔を初めて見たときに、それは間違いだと知った。兄は兄、自分は自分だという強い意志が、その表情から読み取れた。兄と戦うことよりも、もっともっと確固たる強い意志であった。
彼はグラウンドで、一度も人を不快にさせる表情を見せなかった。三振をして叱られても、エラーをして怒られても、ふて腐れたり、チームメイトから哀れんでもらおうとするポーズを、絶対にとろうとしなかった。すべては自己責任のもとで、プレーをしていたのである。それが彼の強さであった。並みの人間では、その強さに敵うものはいまい。「あいつの打球は、メジャー級ですね」。左中間の最深部、それも芝生席の最上部に打ち込んだホームランを見て、コーチがいった。本校にとっては、5年ぶりとなる夏のアーチであった。
「おまえは、甲子園に行こうと行くまいと、しっかりと生きていける人間だから、がんばれるはずだ」。そう言ってはみたものの、兄弟そろって甲子園の土を踏ませてあげられなかったことを、私は今でも悔やんでいる。
兄の試合を見ようと、たびたびグラウンドに訪れていたのが彼だった。いつも上目づかいで、大人しそうな中学生だったというのが、彼の印象だ。はじめて対面したとき、その上目づかいの瞳が、くりくりのきらきらとした瞳に変わっていた。「大きな声が出せるし、元気な子です」。横に座るお母さんが笑顔で話した。その言葉どおり、クラスでも、チームでも、彼がいるところには、いつでも太陽が当たっていた。
最後の春の大会で、彼がタイムリーエラーをした。ベンチにもどってくると、いつもは明るい彼の顔が、真っ青になっていた。「落ちつけ」。私はひきつった顔で、彼を抱きかかえることしかできなかった。彼のところにチャンスがまわってきた。私はベンチから叫んだ。「代打は出さねぇぞ!
自分で打って取り返せ!」。ゲームセットの瞬間、私は部長と握手を交わした。本当にギリギリの勝利だった。
試合後、ベンチ掃除をする彼らに、「おまえらは、すぐ試合を面白くしようとして、わざとエラーするもんなぁー(笑+怒)」。いつもの彼であれば、「はいっ」と笑顔を向けてくるところであるが、その日の彼は、久しぶりの上目づかいで、トマトのように顔を赤らめていた。
「彼はいい選手だから、じっくりと育てて欲しいな」。アマチュアではトップレベルの選手が、私にそう言った。私もそう思った。だから、どんな不調にあえごうとも、ずっとスタメンで使い続けた。彼に足りなかったのは、絶対的な経験量だったのである。経験を積めば積むほど、どんどん上手になる選手だったのだ。厳しく指導すればするほど伸びる人間だったのだ。3年生のなかで、まっ先に大学で野球をやると手をあげたのは彼だった。「おまえは、自分が思っている以上によい選手なんだぞ。だから自信をもってやれ」。2年生の夏の大会前にそう伝えた。
「サードを守っているのは、俺の孫なんだよ。あいつは、バッティングはいいぞ」。3年前、米子市民球場で中学総体を見ていたら、こんなふうに声をかけられた。去年の夏の大会前、そのときの方がグラウンドにやってきた。「ジュース、みんなで飲んでくれよ。みんな力はあるんだから、その力を発揮できるかどうかだなあ」。高校最後の打席、彼は長打を放った。ふつうの人には真似のできない見事な流し打ちだった。おじいさんに次は、神宮での勇姿を見せてあげてほしい。
秋の兵庫遠征のとき、宿舎のルールを守らない部員がいた。ロードワークに出すと、一番はじめにもどってきたのが彼だった。彼は、ルールを守らなかった部員がいた部屋の責任者だった。「自分を叱ってください」。それが彼の生きざまなのであろう。彼は、しばらくは代打の切り札として出場していたが、結果の出ない日が続いていた。ところが、2年生の冬から守備の腕を上げ、それに伴って打撃の方も、本来の力が発揮できるようになっていった。個人練習でも、まっさきにバットを握ろうとしていたのが彼だった。やがて彼は、3年生の春にレギュラーを獲得した。「おまえは、ほかの選手とちがって、我慢して我慢して、やっと努力が実って、ポジションを自らの手で勝ち取った叩き上げの選手だから、必ず結果がでるはずだよ」。春以降の本塁打の数は、県内トップレベルであった。にもかかわらず、「今年の夏は、チームバッティングに徹するぞ!」と宣言した。大会では、チャンスメイクする2本のヒットを放った。それは彼の今後の人生を明るく照らす光の矢でもあった。
この3年間、甲子園エース礒山と彼が何度もダブって見えた。小柄ながらも連投のできる強靭な肉体。そういえば体型はそっくりだった。1年生の秋からエースナンバーを背負い、中国大会・山陰大会出場という実績。抜群の勝負強さ。メンタルタフネス。あらゆることが共通していた。
最後の試合、彼の調子は悪かった。「あんな姿は見たことがない」と誰もが口にした。彼も人間だったのである。人間だからこういうこともあるのだ。しかし、3年間で積み重ねた51個の勝ち星は、決してむだにはならないと思う。107試合に登板、
660イニングを投げて、防御率は2.40という偉大なる足跡。彼がチームにいてくれたおかげで、私も選手も本気で甲子園を夢見ることができた。心から、おつかれさまと言いたい。だが、彼の野球人生は未来へと続く。大学で野球をやると決めたのだ。失敗する者だけが、大成功を収める。「ピッチャーSくん、背番号18、米子松蔭高校」。彼なら、きっと神宮球場のマウンドに立てる日が来るはずである。
「やる気がないんだったら帰れー」。グラウンドは、監督と選手の戦いの場である。ある大学野球関係者に言わせれば、本校の練習におけるピリピリ度は、高校トップレベルだそうだ。だから、はじめてグラウンドを訪れた人は驚くこともあるという。
グラウンドの中には、監督と選手にしか分かりえない空気というものがある。漫才に例えると、選手がボケ役で、監督がツッコミ役だ。「しっかりやれ、バカヤロー」「スミマセン」。舞台にあがる両者が、それぞれの役をしっかりとこなすことによって、練習は進められていく。
彼は最高のボケ役となれる選手だった。私の冗談なのか本気なのか判断に迷うツッコミに対して、あるときは真顔で、そしてあるときは笑顔で、適切なリアクションをとる能力を持ち合わせていた。つまり、監督と選手にしか分かりえない空気の匂いを、しっかりとかぎ分けることのできる貴重な選手だったのである。
「相手のマネージャーばかり見ていたらしいじゃないか、このヤロー」「いいえ、見ていません(笑)」。
彼は、敗戦によって暗くなりそうなチームを、いつも笑顔で救ってくれた。
2度目の北海道遠征のとき、彼が「肺が痛い」とうずくまった。試合前のシートノックのときに声を出しすぎたのだという。そのまま、旭川の病院へ行った。彼は手を抜くことのできない選手だった。常に全力で生きていた。「最後の試合は、今までで一番たのしい試合でした。自分は米子松蔭に来てよかったです」「ぼくも、おまえがウチに来てくれてよかったと思っているよ」。
Sのセレクションの日だった。彼は、練習パートナーとして同行していた。引退してからも、グラウンドの草むしりをしたり、仲間のサポート役として全力を尽くしていたのだ。「Sと一緒に大学で野球をやれよ」「いいえ、自分は就職します」。大学の監督が横にいるというのに、真っすぐな言葉を返してきた。
帰り道、大学の中庭を歩いていたら、きれいな3人の女子大生がおしゃべりをしていた。彼は彼女たちに「こんにちは」と、いつものように挨拶をした。彼女たちは、びっくりしたあと、清々しい笑顔を彼に返した。「大学へ行ったら、あんなお姉さんたちに毎日会えるんだぞ」「いいえ、自分は就職をして、はやく親を楽にさせてあげたいと思います」。またもや、真っすぐなボールが返ってきた。
岸本球場へ中学野球を観にいったとき、器用にボールを操る中学生が目にとまった。彼は、その試合ではレフトを守っていた。そして、マウンドにはSがいた。
初めての授業のとき、黒板に漢字の読みを書くように言った。器用にボールを操っていた少年は、「おれ、漢字は苦手だしー」とぶっきらぼうに言い放ち、ぞんざいにチョークを握っていた。投手向きの性格だなと思った。彼は入学直後の練習試合でマウンドにあがり、いきなり春の大会でベンチ入りした。ウチの野球部では異例のことであった。それくらい野球センスに恵まれていたのである。投手は育つものではなく、生まれてくるものだと言われるが、彼はまさに投手として生まれてきたのだと思う。ところが、作文には「バントの技術を高めたい」と書かれてあった。本人にはその自覚がないようだった。
最後の打席、彼が放った打球は、惜しくもショートのグラブに吸い込まれた。それが抜けていれば同点となる一打だった。「就職して軟式野球部に入り、またピッチャーをやりたいと思います」。彼のピッチャーとしての野球人生は、いよいよこれからである。
高知遠征に出かけるとき、「一番まじめな1年生を推薦してくれ」と3年生に聞くと、まっさきに彼の名前が挙がった。そうして彼は高知遠征のメンバーとなった。「代走だ。いけ!」。さっそうと本塁を駆けぬけた。しかし、その後は記録員としての日々が長く続いた。それでも彼はグラウンドで暗い目を見せることをしなかった。いつも、ほんのりと明るい光を放っていた。それは裸電球が放つような温かくて優しい光だった。ほかのチームにいたならば、レギュラー選手になっていたかもしれない。そう思えた。ある日、そのことを話すと、「いいえ、自分はSHOINの選手がいいんです。SHOINのチームだからいいんです」と、笑顔を向けた。最後の夏、彼は投票により「三塁コーチャー」のポジションを獲得した。ほとんどの仲間が彼のことを推していた。
負けた日の夜、彼がやってきた。「自分は監督さんに三塁コーチャーとして信頼されていたかどうか、監督さんの期待に応えられたかどうかわかりませんが、自分なりに精一杯がんばりました」。そのときも笑顔だった。「三塁コーチャーとしてというよりも、人間として、人として信頼していた」。私は涙をこぼすまいと、大きな声でそう伝えた。
「スコアラー」が彼の任務である。「バッター、四番だろ?」「次のバッター、どこに打っているんだ?」「投球カウントはいくつだ?」などの、ベンチからの数多くの質問と併行して、スコアブックをつけなければならなかった。はじめてスコアラーとしてベンチに入る者は、たいていパニック状態に陥ってしまう。しかし彼は、沈着冷静にその仕事を全うした。
むかしは娯楽の少ない時代だった。遊びといえば、相撲と、そして野球しかなかった。だから、ほとんどの野球少年がスコアブックのつけ方を知っていた。学校にスコアブックをもってきている仲間も数多くいた。ところが現在は、スコアブックをつけられる者は少なくなったという。SHOINに入ってくる選手でも、スコアブックのつけ方を知っている者は限られている。「スコアブックをつけられる」というのは、今では特殊な技能となってしまったようだ。
彼は、その特殊な技能を持ち合わせていた。几帳面な文字でオーダーを記し、赤や青のボールペンで、スコアシートをデザインしていった。スコアブックは、チームの足跡(あしあと)となる。つまり、彼の筆跡は、SHOINの足跡とともに、永遠に残ることとなった。
彼をはじめて見たのは、彼が中学生のときだった。市総体で彼は2年生ながら、マスクをかぶり、チームの中心選手として活躍していた。自らが凡退すれば、悔しさを全身で表現していた。ガッツのあるいいキャッチャーだなと、そのとき思った。2年後、彼が本校の野球部に入ってきた。「中学2年生のときから見ていたけれど、うちの野球部に来てくれないかなと思っていたんだ」。正直な気持ちを話した。
ところが、高校2年生のとき、故障が原因だとは思うが、ファールボールを追わない日が続いた。私はストレートに怒りを伝えた。声がかすれるほど、彼の心に叫んでみた。すると3年生になった彼は、バックネットへ直撃するファールボールでさえ、すぐにマスクをはずし、ボールに向かって走るキャッチャーへと成長した。練習のときは、チームのために厳しい言葉を投げかけることのできる野球選手へと成長した。そして、ベンチにいるときでも、監督の横に座り、もう一人のキャッチャーに声援を送ることのできる人間へと成長した。「自分は米子松蔭で野球を終えることができて、本当によかったと思っています」。彼が暗闇の中で言った、最後の言葉である。
N中学校に公用で訪れたとき、私の乗っている車の窓をドンドンと激しく叩く中学生がいた。びっくりした。それが彼だった。「朝西監督、ぼくはSHOINで野球をやるので、よろしくお願いします」「テストに受からなければ、ウチで野球はできないよ。しっかり勉強しないとね」「はい」「ところで、なんでぼくの顔が分かったの?」「朝西監督の本を買って、顔写真を見て知っていたからです」。
SHOINの一員となった彼は、SHOINグッズとよばれる、Tシャツやセカンドバッグが届けられるたびに、N中学校へ立ち寄り、後輩たちに誇らしげに見せていたという。なんとも微笑ましい話である。自分のチームに、だれよりも誇りをもっていたのだ。彼はそんな大好きなチームで、九番を打ち、そして四番を打った。練習試合を含めても、彼はおよそすべてのゲームでフィールドに立ちつづけた。
「自分は1年生の秋から試合に出させていただいたのに、なかなか期待に応えることができずにすみませんでした」。彼の一撃でチームがたびたび救われたことなど、本人は覚えていないようだった。「おまえは、部活動を引退しても真面目にやる人間だと信じているから、おそらくぼくから真剣に怒られることは、もうないと思う」。それは少しさびしい瞬間でもあった。
彼の走塁技術はプロ級であった。とくにスライディングが素晴らしかった。すべりはじめてから、すべりおわるまでのスピードは、他の追随をゆるさなかった。まるでプロ野球の選手を見ているようだった。
彼が打席に立つと、外野手は前進守備にはいる。156cm、51kgという小柄な選手だから、セオリーどおりなのかもしれない。しかし、次の瞬間には、打球は外野手のはるか頭上を越えていくのだ。圧巻だった。そして、野球場は遊園地へと変わっていく。真っ赤な歓声。メリーゴーランドが回るように、彼がダイヤモンドを回りはじめる。三塁を回ってもスピードが落ちることはない。すべりこんでセーフ。ふたたび真っ赤な歓声が野球場に響きわたる。ランニングホームランはいい。夕陽に染まったコンクリートジャングルの中でやった、あのころのひたむきな野球を思い出させる。
子供のころ行った遊園地には、いつもバターの香りが漂っていた。ポップコーン、クレープ、ホットケーキ・・・。彼がランニングホームランを打ったとき、野球場にはバターの香りが漂っているようだった。
【付記】本文は、「米子松蔭高校野球部HP」→「監督室」→「ひとりごと」に掲載した『14人の戦士たち』を改題し、修正を加えたものである。