麻薬アヘン(阿片)の光と陰
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 シェークスピア(William Shakespeare, 1564-1616)の「オセロ(Othello)」には深い眠りをうるためアヘンシロップを飲むという一場面がある。古代ギリシア人はアヘンに催眠性のあることを知っており、1753年、植物分類の始祖リンネ(Carl Linnaeus, 1707 - 1778)がアヘンの原料植物であるケシにラテン学名の種小名として与えたsomniferumも眠気を催すという意味をもつ。アヘンは欧州文明とともに生まれた奇跡の薬物であるが、魔女狩りや宗教裁判の嵐が吹き荒れた中世の欧州は政治、経済、文化のいずれもが沈滞し、アヘンはほとんど忘れ去られた存在であった。おそらくアヘンは東方からもたらされたものとして悪(devil)と決めつけられ、表舞台から姿を消したのであろう。欧州が暗黒時代であった中世で文化的経済的に欧州を凌駕していたのはアラビア民族のサラセン帝国であり、当時のアラビア医学ではアヘンを赤痢などの治療に使っていたとされる。赤痢は激しい下痢を伴う感染症であり、対症療法として強い止瀉作用を有するアヘンを用いたのである。今日、日本薬局方にはアヘン末が収載されているが、薬効分類上では止瀉薬とされている。欧州でアヘンが普及し始めたのは、長い政治、経済、文化的沈滞から抜け出て自信を取り戻し始めたルネッサンス後であり、スイスの錬金術師パラセルラス(Paracelsus, 1493 - 1541;肖像画は右、切手より)が現在でいうアヘンチンキを発明してからであった。パラセルラスはこれをローダナム(Laudanum)の名のもとで販売したのであるが、Labdanumをもじってつけられた名前である。Labdanumはハンニチバナ科ゴジアオイ(Cistus)属の数種の枝から採った樹液のことで、アヘンとは全く関係のないものである。おそらく香料、いぶし材料などに広く用いられていたLabdanumにあやかったにちがいない。ローダナムは他にアンバーグリス(竜涎香;マッコウクジラの腸にできる分泌物で香料とする)や麝香(じゃこう;ジャコウジカの下腹部の皮下にある分泌腺からの分泌物)を含んでいたいたが、医薬品として痛みを鎮め眠りを誘うことにかけては唯一無二の薬品であった。その毒性のために必ずしもパラセルラスの思惑通りにはならなかったが、アヘンが価値あるものだということは次第に浸透していった。1680年、英国の名声ある内科医シデナム(Thomas Sydenham, 1624 - 1689)は”全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中でアヘン程万能で有効なものはない”(原文:Of all the remedies which a kind Providence has bestowed upon mankind for the purpose of lighting its miseries, there is not one which equals opium in its power to moderate the violence of so many maladies and even to cure some of them.)とまで言い切り、自らの名前を冠してSydenham's Laudanumとして神経障害に効果があるとして売り出したのである。これはワイン、ハーブ、ミカンジュースにアヘンを配合したものであり、当時の欧州で流行し人々を恐怖に陥れていた伝染病ペストにも有効であるとした。ローダナムは当時のヨーロッパ医学にとって必要不可欠なものであり続けたが、19世紀にはいるとイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、アヘンの乱用が目立つようになった。著名な文化人もアヘンを嗜んだ。詩人キーツ(John Keats, 1795 - 1821)もその一人であり、ストレスにうちひしがれた身体を癒すため、アヘンの服用を始めた。キーツは自制心の強い人物だったらしく、乱用してもアヘン依存症にはいたらなかったようである。女流詩人であるブラウニング(Elizabeth B. Browning, 1806 - 1861)もローダナムのの愛好者であったが、彼女の場合は、幼児期煩った脊椎結核の後遺症を治す目的があったようだ。結局、彼女は生涯を通してアヘン中毒になってしまうのだが、むしろそれが彼女の創作活動において創造的刺激となり、詩人としてのキャリアを損なうことは決してなかった。一方、アヘンのもつ嗜好性British opium addicts、耽溺性、習慣性の奴隷と化したのはトーマス・ド・クィンシー(Thomas de Quincey, 1785 - 1859)であった。1822年、"Confessions of an English Opium-eater(邦訳:英吉利阿片服用者の告白)"を発表したが、それは自らがアヘンに溺れる過程を赤裸々に告白した体験記であった。クィンシーはその著書の中で克明に記しており、アヘン中毒の悲惨さ、それから抜け出るのが如何に大変であるかを知るには第一級の資料といってよいであろう。しかし、不思議なことに、クィンシーは阿片中毒になりながらこの著作を著したのである。多くの日本人はアヘン中毒は人を廃人と化すと信じているが、クィンシーは当時の欧州でもっとも重い麻薬中毒患者であったにもかかわらず廃人とはならなかった。一方、東南アジアや中国のアヘン禍ではTVでたびたび放映されたように多くの廃人を生み出した。これはアヘンの服用法の違いによるものである。欧州ではアヘンチンキを経口で服用してきたのに対し、東南アジア、中国では喫煙が主流であった。喫煙によるアヘンの摂取では脳中枢系に集中的に吸収され、しかも速効性である。一方、経口では腸管吸収を経るのでアルカロイドの大半は途中で代謝され、脳中枢系まで輸送されるのは比較的少なく、遅効性である。したがって、アヘンの喫煙の習慣のなかった欧州では、どの国もアヘンの乱用で深刻な社会問題までいたることはなかったのである。また、製造するには恐ろしく手間のかかるアヘンは高価であり、一般の間に流通していたのはずっと効力の弱いメコニウム(麻薬アヘンの歴史と生産の現状を参照)が大半を占めていたからではないかとも推察される。実際、クィンシーは父親から受け継いだ莫大な財産をアヘンで食い潰したといわれる。アヘンのもつ潜在的な魔性がもっとも牙をむき、社会に対して破壊的に作用したのは皮肉にもアヘンの原産地から遠く離れた東洋の大国においてであった。18世紀後半、イギリスでは飲茶の習慣が普及し18世前半と比べると400倍に増え、その大半は中国(当時は清王朝時代)からの輸入に頼ったので大幅な入超に悩まされた。アメリカ独立戦争(1775 - 1783)に対する戦費調達のため、輸入茶に120%の関税を課していたので、他の欧州諸国からの茶の密輸で東インド会社は財政的に苦境に陥っていた。そこでイギリスは植民地インドでアヘンの大規模栽培を開始し、中国へのアヘンの輸出により貿易の不均衡を解消しようとした。イギリスからインドへは当時産業革命の進行で花形工業製品であった綿製品が輸出され、インドから中国へはアヘン、中国からイギリスへは茶、絹、陶磁器などであり、この貿易構図は世界史では「英、印、中の三角貿易」と知られている。つまり、イギリスは清国との貿易赤字をインド産アヘンの中継貿易による輸出で解消しようとしたのである。イギリスが中国にアヘンの輸出を始めたのは18世紀であり、1767年には2000箱(1箱は100斤、約60Kg)以上を売りさばき、中国のアヘン市場が想像をこえる規模でありアヘンビジネスが利益を生むことにイギリスは気付いていたのである。そこで、アヘンの輸出量を増やせば貿易赤字を解消できると考え、インドでのアヘン生産の大増産を図った。19世紀半ばになると、インドで生産されるアヘンは年4,000トン(現在の世界の生産量は非合法を含めて年4,000~6,000トン前後)を越え、うち85%が中国へ輸出されその総額は500万ポンド以上にのぼったという記録がのこっている。これは当時の中国からイギリスへの紅茶の輸入総額330万ポンドをはるかに上回り、一転して大量の銀(当時の通貨)が中国から流出することとなった。これに対して中国はopium-den決して看過したわけではなく1796年にはアヘン輸入の禁止を宣言している。その後でもアヘン販売の禁止(1813)、ケシ栽培とアヘン製造の禁止(1823)、アヘン輸入の厳禁(1831)と様々な禁令を出した。康煕・雍正・乾隆帝時代(1661 - 1795)に最盛期を迎えた清朝も19世紀には政治の綱紀が乱れ、これらの禁令も効果はなかった。大量に輸入されたアヘンを当時の中国人はタバコのように喫煙し、その魔性に溺れた民衆は衰退の兆しが見え始めた清朝政府の命令には従わず、禁制品のアヘンをひたすら買い漁ったのである。18世紀では華南だけに限られていたアヘンの喫煙の習慣はたちまち華中から華北へと広がり全国に流行するようになった。アヘン中毒者はアヘンの入手には手段を選ばないから、禁令にもかかわらず、ブラックマーケットが国内各地に雨後のタケノコの如く誕生した。東インド会社は独立貿易商を介した密輸出で禁令が発布された後も大量のアヘンを中国で売りさばくことができた。それほど清国の政治の綱紀が乱れ、国家の統制にほころびがあったのでである。アヘン禍は19世紀半ばには清朝のエリート層にまで浸透したといわれ、その結果清朝政府内部opium warにアヘン輸入の緩和を主張する勢力が生まれ、アヘン輸入の厳禁を主張する革新派官僚と対立した。厳禁派の中心的存在だった林則徐(1785 - 1850)は道光帝(在位1821 - 1850)の命を受けてアヘン禁輸の布告を発布するとともに外国商館の封鎖、イギリスの中国駐在総督を監禁するという過激な行動に出て、結局、イギリスにつけ込む隙を与えることとなり、アヘン戦争(1839 - 42)を誘発してしまった。この戦争では、右の絵画(中国軍艦を駆逐するイギリス戦艦ネメシス号)で象徴されるように、当時としては最新鋭の装備を誇るイギリス海軍に清朝は大敗を喫し、南京条約(左下は南京条約締結の光景)を締結して和平せざるをえなかった。このとき、清朝は香港を失ったほか、多額の賠償金を支払い、イギリスは本格的に中国へ進出する足がかりを得た。それまでは清国は朝貢形式による貿易だけを周辺諸国との間で承認し公行と称する商人組合が独占していたので、欧州から世界を相手に交易してきたイギリスにとっては極端な規制による制限貿易にみえたのである。アヘン戦争は中国人にとっては「恥辱の世紀」の序曲に過ぎず、これ以降もイギリスは自由貿易の名のもとに次々と要求をエスカレート、その過程で清国の後進性がNanking treaty露呈するや否や欧米列強による中国の半植民地化が始まったのである。キリスト教vsイスラム教、ラテンvsゲルマンvsスラブなど様々な異民族間及び異文化間でたびたび熾烈な興亡を繰り返してきた欧州からみれば、当時の中国は文化、経済、政治の全ての点で遅れたアジアで君臨することに慣れきった「井に中の蛙」であり、その中で切磋琢磨を忘れた「巨大な豚」にしか見えなかったであろう。以降、中国は太平天国の乱、第二次アヘン(アロー)戦争を経て急速に国力を衰亡させることとなったのである。第二次アヘン戦争ではアヘン輸入の合法化に同意させられ、中国におけるアヘン禍は20世紀になっても止まることはなかった。イギリスが国民及び議会の圧力で中国へのアヘン輸出を停止したのは1910年であり、それまで実に150年にわたってアヘンを中国に流入し続けたのであった。その結果、1913年頃には全国民の4分の1がアヘン中毒に陥っていたといわれ、完全にアヘンの呪縛から逃れるには、1949年、中華人民共和国の成立まで待たねばならなかった。中国へアヘンを供給する巨大生産地インドは、1947年に独立した後、中央政府がアヘン専売を継承し、前述したように現在では合法アヘン生産国として世界のモルヒネ需給をまかなっている。インドのアヘン生産がイギリスによって始められアヘン戦争とも深い関わりがあったことはあまり知られていないが、植民地経営の一貫として推進されたものである。幸い、わが国は朝鮮とともに植民地主義者の毒牙にかかることはなくアヘン禍を免れることができたが、中国という巨大な消費地がアヘンの大半を飲み込みんで極東までそれが届かなかったという幸運に恵まれたからにすぎない。 現在、アヘンはほとんどヘロインに加工され、ブラックマーケットで取引される。ヘロインはジアセチルモルヒネのこと(アヘンの化学を参照)であり、1874年、英国人薬剤師ライト(Alder Wright)によって合成され、化学的に修飾された麻薬の最初の例である。1895年、ドイツのバイエル(Bayer)社 はヘロインの生産を開始し、1898年から販売した。当初は、ヘロインはアヘン中毒患者の薬物依存を改善する効果があると信じられており、20世紀初頭、米国では中毒患者に無料でヘロインが配布されたという現在では考えられないことが行われていた。まもなくヘロインに薬物依存性のあることがわかり禁止された。しかし、当時の米国はアヘンに対する取り組みは信じがたいほどスローであった。1902年にはヘロイン中毒が社会現象となっていたが、アヘン等麻薬の輸入、使用が禁止されたのは1914年Harrison Narcotics Tax Actが施行されてからである。
 日本にアヘンが伝わったのは約500年前で中国経由とされるが、喫煙の習慣は伝えられなかったようである。当時の明朝政府がアヘンの喫煙を野蛮視していたことと関連があるかもしれない。あるいはただ日本人の嗜好に合わず定着しなかったのかもしれない。ただし、江戸時代にケシを栽培していたという記録は残っている。江戸時代の民間医療書である「普救類方」にも、「反胃は、食したるものを吐(はき)かへすなり、時すぎて吐(はき)かへすもあり、或(あるい)は、今日食したる物を明日吐(はき)かへすもあり、---」なる時、「罌粟殻(けしのから)を水にて煎じの(飲)みてよし」とあり、民間でもケシが薬用に供されたことがわかる(漢方医学では全く用いられていない)。しかし、アヘンを採取していたかどうかは微妙であり、ケシの栽培はアヘンを採るではなく食用として種子を採るために行われ、わずかにケシ殻を薬用として利用していたにすぎないと思われる。栽培規模もごく小規模であったと思われる。日本人が薬としてのアヘンを初めて知ったのは幕末になってからである。シーボルトなどオランダ人がアヘンを持ち込み、弟子の日本人蘭医に使い方を教えたのが始まりであろう。わが国でのケシの栽培が本格的に始まったのは20世紀に入ってからで、大阪出身の二反長音蔵が水田の裏作としてケシ栽培を振興したのが起源とされる。当時の内務省も栽培には積極的だったようで、音蔵は講師として多忙だったと伝えられる。始めは薬用目的のアヘン製造だったと思われるが、昭和6年、満州事変次いで日中戦争の勃発後は満州国の維持と100万の軍隊の駐留費用の調達に変わってしまったといわれる。そこで、音蔵は、当時、日本領であった朝鮮、傀儡政権をおいた満州国にケシ栽培の奨励のため講師として招聘されるようになった。当時の朝鮮総督府、満州国政府はケシ栽培を管理し、アヘンを専売制とし、当時、まだ膨大な人数がいたといわれる中国のアヘン喫煙者に売りつけることにより利益をあげたという。その利益は当時の満州国の植民地財政の基幹をなすほど膨大だったようだ。ちょうど1世紀前にイギリスが当時の清国に対して行ったことを繰り返したのであった。当時の日本の政策は国際社会から批判を浴びたといわれるが、今日の歴史にほとんど残されていない。最近になって、当時のアヘンの栽培の実体が関係者と称する人物による著作で明らかにされた。そこには「日本が日中戦争において行った最大の国家犯罪」というセンセーショナルなサブタイトルがつけられている。これはおそらくイギリスの対中アヘン貿易を「近代においてもっとも長く続いた計画的な国際犯罪」と形容した米国ハーバード大学の著名な歴史学者フェアバンク(J. K. Fairbank)の言をコピーしたにすぎない。満州事変当時、イギリスがインド産アヘンの中国への輸出を停止してから20年程経っていたが、アヘン戦争まで起こして大量のアヘンを売りさばき収奪の限りを尽くしたはずなのに、国際社会で反省の言は述べていなかった。香港をイギリス領として保持していたから、日本を追求して藪蛇になるのを恐れたのかもしれない。戦後、東京裁判でもこのことは一切問題視されてなかった。一方、朝鮮では日本と同じくアヘンの喫煙の習慣はなかったのでアヘンからモルヒネを抽出しそれを売りつけたというが、それによってモルヒネ中毒患者が蔓延したということは聞かないので、あまり流行しなかったようだ。近年、北朝鮮で大規模なケシ栽培が行われ、アヘンを闇ルートで売りさばいているという疑惑が報道された。テレビ映像で紹介されたケシ畑で栽培される品種は明らかにわが国で開発された「一貫種」と同じ形態的特徴をもち、当時の日本がアヘンを外地で生産していたものがまだ生き残っていたことを示すもので、日本が外地で大規模なアヘン生産をしていたことを傍証するものだろう。19世紀の米国の南北戦争(1861 - 1865)で北軍だけで280万オンスのアヘンチンキと500,000万錠のアヘン錠を消費したといわれ、40万人の兵士がアヘン中毒に陥ったという説がある。また、ベトナム戦争(1964 - 1975)中では多くの米軍兵士が南ベトナム解放民族戦線とのジャングル内での激しい戦闘によるストレスをアヘン(おそらくヘロイン)で癒したともいわれる。これらは合衆国史の暗闇の中に封印されてしまったが、アヘンによってのみ得られる精神的多幸感は極度のストレスを解消するのに必要だったに違いない。明らかに違法行為であるが、おそらく為政者も暗黙のうちに了解したものであっただろう。アヘンはその魔性の薬物としての特性の故、歴史の暗部にしばしば様々な形で関わってきた。アヘンは今日でも裏社会で確実に商品価値があり、それを買い求める市場が存在する。だから非合法アヘンの生産はなかなかなくならない。東南アジアの黄金のトライアングルではケシの栽培が大幅に減ったとはいっても、生産の中心がアフガニスタンに移動しただけで、世界のアヘンの潜在的需要が減少したわけではない。アヘンは麻薬であり、アヘンを売りつけることはしばしば「未必の故意」に例えられることがある。前述のような戦時中の日本のアヘン生産が国家犯罪と決めつけているのもその見解の延長線にあるものだろう。しかし、冷静に考えてみると、麻薬に手を染めるか否かは個人の選択の問題であって、個人責任の要素がかなり大きいことは明らかである。アヘン戦争前後、当時の清朝のアヘン禁令に対して反対した国民は少なくなかったといわれる。現在のわが国のように厳格な法律で取り締まられている体制のもとではアヘンを所持するだけで犯罪であるが、法律が未整備の体制の下ではたとえ使用したとしても犯罪とはならない。アヘンは危険だから使用しては行けないという教育が徹底していればアヘンの潜在的需要はないはずである。中国ではアヘン禍が起きる程アヘン常習者が多かったが、朝鮮ではそのようなことはほとんど起きなかったことで明らかである。戦前の日本でも国内でかなりの規模のケシ栽培が行われていたが、それによってアヘン禍が起きることはなかった。当時の日本人そして朝鮮人もアヘンに手を染めるほど愚かではなかったのである。戦前の軍国日本がアヘンを売りさばいて利益をあげたとしても、またイギリスが清国に対してインド産アヘンの交易で膨大な利益をあげたとしても、名目上は資本主義経済の下で一定の市場があるところへ商品を売りさばいた商業行為の一つにすぎないのであり、一般の犯罪行為とは明らかに違うのである。19世紀、イギリス国内でもアヘンの常習者が多く発生し、それは一流の知識人にまで及んだが、深刻な社会問題にはならなかった。多分、イギリスは中国でアヘン中毒によりおびただしい廃人が生み出されていることに気付いていなかったのかもしれない。米国ブッシュ大統領が「悪の枢軸」と断じる北朝鮮がアヘンの密貿易に手を染めているという疑惑が取りざたされているがそれを犯罪的行為と断じるのも困難である。外貨に乏しい同国にとってアヘンが「金のなる木」であり、金を儲けるためにもっとも手っ取り早いことをしているにすぎない。車は交通事故を起こせば人を殺傷するからといって車を売りつけることは犯罪行為にならないのと同じである。車を運転するか否かは個人の意志に基づくものだからである。トーマス・ド・クィンシーほどの歴史上の有名人ですらアヘンの虜になったが、彼は決してアヘンを悪と考えていたわけではない。彼は個人の責任でアヘンに手を染め身を滅ぼした(別に廃人になった訳ではないので、この表現は不適当かもしれない)だけであるが、その文面から、彼のようになりたくなければアヘンに手を出すなとも受け取れる。アヘンは医薬原料としてかけがえのない存在であり、人類はむしろアヘンに感謝しなければならないほどである。これからもアヘンは重要な原料であり続けるだろうし、1946年以来途絶えているケシの大規模国内栽培をモルヒネの需給次第で近い将来再会せざるを得なくなるかもしれない。「アヘン=悪」と単純に断じるだけではアヘンの恩恵を享受できる権利を放棄することになる。アヘンに対する教育を徹底するだけでもアヘン禍はかなり防ぐことはできるはずである。アヘンは二重人格のジキルとハイドのように天使と悪魔の両方の側面をもつ。天使の微笑みで激痛を鎮める成分と、一方で悪魔の囁きで極楽にいるかの如き快楽をもたらす成分とが、皮肉なことに全く同一(モルヒネ)だからである。科学者はこの両者を分離しようと合成鎮痛薬の創製に心血を注いできたにもかかわらず、これといった成功を収めておらず、今後もあまり期待はできないであろう。末期癌のターミナルケアですら、わが国の医師はモルヒネの使用に実に消極的で、激痛に顔をしかめる癌患者に対してひたすら忍従を強いるだけであった。欧米でははるか以前からモルヒネを積極的に使用し、治る見込みのない末期癌患者にやすらかな最後の眠りを提供してきたのと対照的である。わが国での末期癌患者の扱いはまるで拷問にかけているようなものだ。モルヒネに対する基礎知識の欠如、またネガティブな側面だけを強調するあまりモルヒネの利点を認めようとしない一部知識人の存在がモルヒネの普及を妨げているのである。このような状況のもとでは医師が尻込みするのももっともである。適正に使用さえすればモルヒネは決して危険な薬物ではないということがこの国で理解されるにはしばらく時間がかかりそうだ(→この部分は癌の疼痛治療に欠かせないアヘンの主成分モルヒネを参照)。