研究テーマを文系に舵取りした経緯(2)
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 前号では、当初、第一志望であった工学部進学を入学早々に断念し、薬学部へと大きく舵取りした経緯を述べた。とはいえ、工学系のカリキュラムの基礎科目である数学・物理学の単位は修めているので、一定レベルの数物的知識は取得している。工学部への未練はほとんどなかったから、ドロップアウトしたという精神的ダメージはこれっぽっちもなかった。薬学部への進学後、学業成績はよかったが、ただ七ヶ月にわたる紛争の後遺症でカリキュラムが超過密となったため、学生生活としての余裕がまったくなかったのがつらかった。だからガールフレンドができてもデートはままならないため、関係が冷え込んでしまうことが多々あり、バラ色の青春とはほど遠かったのである。卒業は三ヶ月遅れの六月三十日付けで、薬剤師国家試験は当時卒業後に行われたから受験資格はなかった。もっとも当時の国家試験は四月と九月の年二回実施されていたから、同級生は九月に受験したと記憶している。あるいは特例で四月に受験していたのかもしれないが、筆者は、当初、薬剤師という資格に興味がなく、卒業直後に出願しなかったので、記憶が定かではないのだ。現在、薬剤師の資格をもっているが、卒業して二年後(正確には一年九ヶ月後)の昭和四十八年四月に受験、合格し、その三ヶ月後に薬剤師登録したのである。大学院修士課程を修了、博士課程に進学したとき、管理薬剤師として学費を稼ごうというよこしまな願望が国家試験受験の動機であったのだ。残念なことに法令が改正されたため、名義貸しの管理薬剤師は認められなくなり、先輩が伝授してくれたおいしいアルバイトの夢は露と消えてしまった。四年生の卒業実習および大学院は生薬学植物化学教室に配属、生薬の成分研究を行った。研究は至って順調で、昭和五十一年三月に博士課程を修了、薬学博士号を授与し、幸運なことに同年四月から所属教室の助手に採用され、以降、三十八年間の教員生活を全うしたのである。東大に在籍したのは教員としてのキャリアのうち三分の一に当たる十二年半で、昭和六十三年十月から帝京大学薬学部生薬学教室に助教授として移った。一応、遅まきながらキャリアアップを実現したのであるが、必ずしも順風満帆というわけにはいかず、途中で国文研究に転向したのも深刻な事態に出くわしたからであった。転出先の教室の主任教授(以降STと呼ぶ)は東大出身で、大学院時代の筆者の中間指導教員でもあった。したがって気心は知れているはずであったが、これがとんでもない食わせ物だったのだ。STは筆者が博士課程を修了、助手に採用された時を同じくして私大薬学部に助教授として転出、二年後に新設の帝京大学薬学部生薬学教室に初代教授として赴任した。当時、公立大学薬学部に助手として勤めていた筆者より一つ上の先輩を助教授として招聘し、三年下の後輩を助手として採用するなど、東大の生薬学植物科学教室出身者だけで固めた教室を作り上げたのだ。ただし、もともと”教授になることだけが夢”で研究はほとんど眼中になく、自分で勉強するというタイプではなく、虚栄心だけは並はずれてつよい人物であった。すなわち自分は”教授様である、頭が高い”というような時代錯誤の態度を部下に対してとっていた。もっともこのような態度はSTに特有ではなく、薬科系大学にはこれほど極端ではないにせよ似た御仁はごろごろいた。そのため外目からはとくに異常に見えなかったので、実際に教室員が味わっている苦痛はほとんど理解されず、部外者に相談しても、上司に尽くすのが当然でそれに従わないお前が悪いといわれるのがおちだった。助教授以下の教室員は五年で十数報分の実験データを残し、英文論文としてまとめたにもかかわらず、ついに日の目をみることはなく、STによって握りつぶされてしまったのだ。教室では若い学卒の女性を教務職員として雇用していた(東大薬学部卒!)が、あまりに理不尽なSTの指示につい口答えすることもしばしばあったという。筆者の直接知るところではないが、隣の教室の友人によれば、聞くに堪えない罵倒とともにこの助手に平手打ちをしたことも一度二度ではないという。学部長ほか学部の執行部もその事実を把握していたらしいが、今日ではパワハラ、アカハラとして十分に告訴の対象となるが、当時のアカデミック界ではそのような認識がなかったため放置されてしまったのだ。結果として創立時の教室員は助教授以下すべて去り、その後も教室員の入れ替わりは頻繁だったらしい。筆者がそんなおぞましい研究室に送り込まれたのは東大大学院の五年間をSTと過ごした経歴が買われたからのようだが、正直なところ迷惑千万であり、この人事を勧めた人物を今でも怨んでいる。そのことは後述することとしたい。STの振る舞いは以前に増して異常性が増幅され、もはや病気ではないかとさえ思えるほどだった(実際、後述するように精神的な疾患であった)からだ。正確にいうと、赴任して最初の一二年は何事もなく、これなら何とかうまくやっていけるのではないかと思うほど順調だった。ただし、筆者に対してSTが気を遣っていたにすぎず、ほかの教室員に対しては相変わらずの横暴であった。それは筆舌に尽くせないほどあまりにみっともなく、実際に体験しなければ理解できないだろう。筆者は見るに見かねて仲介の労をとろうとしたため、却って関係がこじれてついにSTとの”全面戦争状態”となったのである。こうなるともはや後戻りできず、むろん関係の修復など期待する方が無理だった。当然ながら筆者の研究にも大きな影響があり、まともな研究はできなくなった。当時の帝京大学薬学部は各講座への配分金が潤沢で、それ故、創立当初の助教授、助手など、筆者の先輩・後輩は研究論文とするに十分なデータを得ることができたのだ。講座制というのは教授を頂点とする独裁国家に等しく、そんな潤沢な予算は教授の印鑑がなければ使うことは不可能であった。ただし、多くの消耗品は全教室員が共通して使うから、筆者が支払い申請をする必要はなく、その面では不自由はなかったが、自分の希望する実験資材が自由に購入できなかった。後述するように、それは科研費ほか外部資金を獲得することで解決できたのであるが、研究に支障を来したのはそれだけに留まらなかった。当時は四年制であった帝京大学薬学部の学生は、四年生になると各研究室に配属され、卒業研究を行うしきたりであった。一講座当たり十数名の配属学生は研究を行うには欠かせない貴重な戦力であり、その中の何人かは大学院修士課程への進学を希望する。それまでは筆者にも卒業実習生が割り当てられ、独自のテーマで研究できたのであるが、STとの関係が冷え込むにつれ、単に割り当てられるだけで筆者の研究テーマで実習させるのはできなくなったのである。この状況は平成九年度まで続き、その間は自分だけで実験するしかなかった。筆者に割り当てられた学生もそのあたりを配慮して当方の手を患わすことなく実験をやってくれたのは大いに助かった。当然ながら筆者自身で行った研究成果はSTの名前抜きで学術雑誌に投稿したから、STも内心穏やかではなかったにちがいない。共著者として名前を入れると、見かけ上業績としてカウントされるので、研究の足を引っ張るだけでサポートは一切しないSTを除外することは筆者として絶対に譲れない一線であった。幸い科研費を継続的に獲得できたので、孤立無援であっても研究を継続し成果をあげることができた。平成十年度から付属施設の薬用植物園に配置換えとなったが、STが園長であったため、相変わらず支払い申請、出張申請などはSTの印鑑が必要であった。助教授一人だけとはいえ、一応、生薬学教室から独立し、配属学生および大学院生(希望者がいれば)を受け入れることができるようになり、何とか研究らしい研究ができるようになったのである。この人事はSTの望むところであるはずはなく、学内人事委員会の強い後押しがあったからだと思っている。それほどSTは学内では孤立していたのだ。しかし、平成十八年度以降はそれまで六名の配属学生を受け入れることができたのが半減することになり、研究の遂行に大幅な制約となった。配属数が少なくなると第一希望の配属学生がほとんどいなくなり、大学院希望者はほとんど期待できなくなったのである。因みにそれまでは修士課程四人(留学生一名を含む)、博士課程一名を指導してきた。手足となる実習生や大学院生がいなくなれば、まともな研究成果を出すことは期待できず、それまで連続して獲得してきた科研費の申請も断念せざるを得なくなった。研究のテーマを理系から文系に舵取りをする第二の決断はこの段階で発生したのである。文系テーマであれば筆者個人で遂行が可能で、研究費はこれまでと同じように配分されたから、文系研究を遂行するには十分すぎるほどであった。ただし、半分になったとはいえ、一応、配属学生の卒業実習は継続する義務は残った。実習テーマを文系にするという選択肢もあったが、薬学部である以上、理系研究に拘るべきだべきだと考えたのだ。卒業論文として結果さえ出ればよいから、そのテーマは超軽量でもよく、その引換としてまともな学術誌に投稿できるほどのデータは期待できなくなった。かくして学生指導の負担は軽減され、薬学部としては珍しい文系のテーマの研究を本格的に行うようになった。その端緒は平成十四年に立ち上げた個人的ホームページにある。ここで生薬学・天然物化学、薬用植物学、漢方医学の電子テキストをアップロードし、筆者が担当する授業科目にも活用してきたのであるが、学生ほか一般の閲覧者に対して興味をそそるトピックとして選んだのが”万葉の植物”であった。万葉集では160種ほどの植物名が出てくるが、和名のほか漢名で表されている。漢名とはほとんどが中国本草に由来する今日でいう学名のような機能をもっていたから、中国本草を精査すれば、それがどの植物を指すか解明できるはずである。ところが万葉時代に伝わっていた本草書の記述を解析したものはなく、明代末の本草綱目それも国訳本草綱目という和訳本を参照したにすぎず、その考証の過程もかなり杜撰なものであった。こういう状況があったから研究すればするほど、興味深いデータが集まり、それらを少しずつ解析してホームページにアップしたのである。ネットの影響力というのを改めて知らされたのは、平成十六年ごろであろうか、植物文化に関する書籍の出版で定評のある八坂書房から早速執筆依頼があったときで、さっそく執筆に専心し、平成二十二年二月に『万葉植物文化誌』として刊行した。この書は専門家のみならず一般にも広く支持していただいた。後年、国文系のある学会に入会したのであるが、かなりの人が筆者の名を熟知していたのには驚かされ、同書がかなり高い評価を得ていたことがわかった。これに味をしめたわけではないが、平成二十七年に『歴代日本薬局方収載生薬大事典』を上梓、今年度においては科学研究費補助金の助成を受けて『和漢古典植物名精解』(本年六月二十四日採択確定)を刊行する作業が進行中である。以上の三部はいずれも大冊で、内容も客観的視点に基づいており、一般の文系出版物にありがちな観念的記述がほとんどないのが特徴である。生粋の理系人として妥協を許さない入魂の書であり、いずれも広く高く評価されるものと信じている。ただし、一部の筋からは嫉妬の目で見られるかもしれない。
 以上、三十八年間の学術生活の総決算が三部の大冊で万々歳と思われるかもしれない。しかし、筆者としてはそれほどの心血を注げば生薬学・天然物化学の分野でも相応の業績を残せたと信じている。したがって昭和六十三年に STの研究室に追いやられたことを今でも恨んでいるのだ。すなわち理系のキャリアが事実上そこでストップを余儀なくされ、三部の大冊はその怨念の結果生み出されたというのが正直なところなのだ。もしSTが追放され、筆者がその座についていればまったく異なる人生となっただろう。もしそうなれば三部の大冊は日の目を見ることはなかったのではないかといわれるかもしれない。実はかなり前から定年後のライフワークとしてロードマップに載せていたのであって理系研究とは完全に区別していたのである。したがって筆者をかかる境遇に追いやった当事者(STのほかにもいるのだ!)に対して今でも怒り心頭に発しているのである。帝京大学生薬学教室の創立期に在籍した助教授以下の先輩・後輩も同じ気持ちを共有しているはずだ。
 最後にSTがどういう人物であったか述べておこう。結論を先にいうと、STは教育者・研究者として完全に失格であった。帝京大学に赴任してまもなく、当時の私学出身の助手からSTは成分の構造解析ができないのですよと聞いてびっくりしたことがある。STを知るものでそれを指摘した人物は一人もいないからだ。それが事実であることに気づいたのはかなり後のことであった。STは生薬カンゾウの成分研究で学位を取得(課程ではなく論博)したが、三種の新規化合物を得てその構造を解明したのである。ところがその構造はすべて間違っており、後年に筆者を含む他研究者によって訂正されたのである。これは研究者として屈辱的なことであり、STに構造解析能力がないことを端的に示す証左でもあったのだ。筆者の大学院時代はSTが中間指導教員であったが、よくよく考えてみると、構造解析でSTに手伝ってもらった記憶はまったくない。構造解析に必要な機器データを手渡したことは何度もあるが、構造式という具体的な形となってフィードバックされたことは一度もない。帝京大学生薬学教室創立当初の助教授、助手が提出した論文がそのまま放置されたのもSTがその内容を理解できなかったからであろう。講座のトップに立つものの習性として論文原稿には必ず朱筆を加えることがあり、そうすることが自らの権威を認知させようとするからである。そういえば、STの講義ノートは帝京大学に移る前に二年ほど勤めた私学薬学部時代に完成させたと聞いているが、初版からまったく改訂されたことはない。すなわち毎年同じ講義を繰り返すという世間一般で流布する悪しき文系の教員像そのものなのだ。不幸にして当時の帝京大学薬学部は強固な講座制を採用していた。講座制において教授の権力は絶対的であり、学部長はもとより学長すら踏み入れることのできない聖域であった。トップに立つ教授が応分に有能であり、あるいは多少能力に?マークがつくにしても人間性が優れてリーダーとして容認できるレベルにあれば、講座制はその潜在的な機能を遺憾なく発揮でき、研究室制よりむしろ優れた業績を生み出せるだろう。しかし、STのような人物が上に立てば完全にお手上げで、その配下に置かれたものはすべてあわれな犠牲者となるほかはない。ある時期、帝京大学生薬学教室の先輩・後輩は飲み会で毎年のように愚痴をこぼしていたが、それが身にしみて理解できるようになったのは実際にSTの研究室に配属してからであった。昨年であっただろうか、筆者宛ての先輩(本件とは無関係の)の年賀状にハッピーに退職できたかという、実に失礼千万なコメントが書かれていたが、飲み会などで愚痴をこぼしても結局は親身になって相談に乗ってくれる人物はいなかった。先輩・後輩もさぞ歯がゆい思いをしたことだろう。
 そんな好き勝手放題に振る舞ってきたSTであるが、転機が訪れたのは平成十四年のことであった。医学部から転任した産業医から病気治療のため休職すべきとの断が下されたのだ。それまでも薬学部には医学部と併任の産業医はいたが、STに対してはまったくスルーしていたから衝撃的でもあった。しかし、目に見えないところではSTに対する包囲網は形成されつつあったらしい。2000年代になると研究ばかりでなく教育も重要な評価項目になり、それに伴って学生の授業評価も無視できない指標となった。いくら学生に嫌われようが、まともな授業をしていれば、授業評価が低くても気にする必要はない。しかし、STの授業はあまりに異常だったようだ。まず授業出席をとり(STは助手に行わせていた)、授業プリントを配布するだけで三十分ほど費やし、また授業終了前に学生の出席を再確認する(途中退出をチェックするため)のにまた三十分かかったというのだ。すなわち実質の授業時間は一時間ほどで、これが累積すればカリキュラムを消化できず、そのくせ試験問題はそれまでに蓄積した過去問から自動的に抽出して定期試験に臨んだから、学生側からすれば授業で触れていない問題がたくさん出題されたと不満が多かったという。新任の産業医はSTの授業を実際に聴講し、教員としての職務を遂行するのが困難と判断したのだ。その前年度、STは薬学部の公開講座を担当し自ら講演したが、聴衆から事務室に苦情の電話があったという。公開講座は大学の社会貢献の一環として行う事業であって、聴衆がクレームをつけることは普通ではあり得るはずはなく、STの講演に何らかの問題があったのは一目瞭然であった。産業医はSTによる二回目の講演も聴講しており、異常ともいえるほど不評の授業評価とも併せて最終判断をしたらしい。STの担当していた授業はそっくり筆者が負担することになり、事務方からSTが休職する旨を伝えられた。薬用植物園はながらくSTが園長を勤めていたが、学部長が交代して講座制から大講座制へ移行したに伴い、園長は学部長が就任し、STと筆者は担当者となった。当時の帝京大学薬用植物園には全国的にも珍しいケシ園があり、ケシ栽培の名目的責任者はSTであったが、実質的には薬用植物園教室の教員がSTの名前で毎年膨大な許可更新手続きを行っていた。学部長が園長に就任してもこの慣行は継続されたのは、もしSTが更新手続きも含めてケシ園を運営したなら、由々しき事態を引き起こしかねないと危惧したからである。STが休職になればケシ園の運営を引き継ぐのは筆者しかいないので、ここで初めて名目上の担当者と実質的担当者という職務上のねじれが解消されることになった。しかしながらSTは休職になっても薬用植物園やケシ園に出没し、何かと口出しする厄介な存在であった。そこで筆者は園長である学部長ほか事務方とも相談の上、ケシ園の鍵を一新し(STは合い鍵を持っていた!)、二名の園丁にもSTの支持に従わないようきつく言い渡したのだ。STは休職に際し、薬用植物園へ出入りして植物の手入れができるよう条件をつけていたらしく、当然、思うようにならないとの不満を事務方に伝えた。すなわち約束がちがうではないかという訳である。その抗議は筆者にも届けられたが、筆者はある条件が遵守されれば許可しても良いと伝えた。筆者の課した条件とは、薬用植物園の実質的担当者である筆者への上申書を作成し連帯保証人とともに実印を押して提出すること、不測の事態が起きた場合の責任を明確にして筆者にその影響が及ばないことを確認する旨の誓約書、そして作業日ごとに目的、作業内容および開始・終了日時を明記した筆者宛ての報告書を作成して提出することであった。事務方はそれをごく当然と受け止め、そのままSTに伝えたが、以降、まったく返答はなかったという。永遠に格下と思い込んでいた筆者に頭をさげろと要求されたのに等しく、STが受け入れるはずはないから、この条件を押しつけたのは計算済みであったのだ。これまでの怨念を払う復讐とばかり攻勢に転じたのか、すなわち低次元の復讐ではないかといわれる可能性は皆無ではなかったが、正当な言い分があって言い訳はいくらでも立つから、まったく気にしなかった。相手はもはや休職の身分、授業ほか学内業務にSTの影はもはやなかった。休職満期の二年後に復職の可能性もあったが、すでに定年まで残すこと二年、いくら干されてもそれぐらいは持ちこたえられるし、そもそも学内にSTをかばう勢力もいなかった。STの病状については、個人情報保護法によって事務方から一切説明はなかった。休職直前のSTは痩せて顔色もよくなかったからがん治療かと勝手に思いこんでいた。それ故、治療を終えて復職したとしても以前ほどの元気はなく、筆者に嫌がらせは難しいだろうとしてSTに高圧的な態度をとったのである。この賭けはSTとの最後の決戦として臨んだのだが、二年後、STは復職することなく大学を去った。かくして筆者は教授に昇任できたのである。因みに、STは辞職して五年後にこの世を去った。筆者は海外出張中でそれを知らされたのはかなり後になってからであり、若年性アルツハイマーによって最後は廃人同然だったという。すなわちがんだったのではないかという筆者の予想は完全に外れていたのだ。アルツハイマーであったとすれば、薬用植物園・ケシ園の利用に関して筆者が課した条件はSTに対しては最大級の精神的ショックを与えるから、絶対にしてはならないことであった。筆者がそれを知ったのは、平成二十六年二月十一日に行われた第四十一回首都圏段戸会総会(岡﨑高校首都圏同窓会)で認知症治療の専門家杉山孝博氏の「認知症の理解と援助」という講演においてであった。同氏は認知症患者の特徴といかに対処すれば良いかを「9大法則・1原則」に分類して非常に分かりやすく説明したのであるが、同時に懇親会の席上で筆者のしたことが病状を悪化させる要因に当たるとも明言したのである。したがってSTが復職できず二年で辞職に追い込まれたのは筆者の仕打ちにも原因があるとしてまちがいなさそうである。しかし、STの病状を知らされていなかったから、よほど敏腕の弁護士でも筆者の責任を問うことはできないだろう。もし承知していたとすれば、筆者のとった一連の行動は未必の故意ということになるのだろうか。STの過去の仕打ちこそ問題にすべきで、むしろ過去にさかのぼってその責任を追及すべきであって同情の余地はこれっぽちもないが、認知症で人格を喪失してこの世を去ったのであるから、むしろ幸せであったのではないか。帝京大学時代の被害者は筆者だけに限りませんぞ、STさん、あの世で罪を償ってください。あなたの正の業績はありませんから、学問上ではあなたの名前は残りませんが、負の業績なら山ほどあります。このページは永遠にあなたの責任を問うために開設しました。実名を出していませんが、もし歴史に名を残したいのであれば、いつでも実名を出しますよ、STさん。これは日本人の心情としてはゆきすぎだろうか、しかし現在の日本は一部の国からとんでもない仕打ちを受けているのですぞ。