ソメイヨシノ研究史
戻る

 これは学術論文ではなく、竹中博士がソメイヨシノの起源の研究に至る経緯を雑誌「遺伝」に「よもやまばなし」として記したものであるが、ソメイヨシノの研究史を平易に記しているので参考文献としては最適だろう。
 引用文献:遺伝, 12(1): 41-46, 1958
染井吉野というサクラ
 大正13年(1924),今から数えると35年前になる。小石川植物園に東大の植物学教室があって,われわれ第一学年生(前期学生)は4月早々牧野富太郎先生の園内実習を受けた。ちようど関東大震災のあとで,園内には小石川表町あたりの罹災者がバラック建に住んでいた。
 牧野先生は満開のサクラを指して"これが染井吉野というサクラで,どこに原産地があるかわからぬ。一時は大島が原産地だといわれたが,大島には決してない。染井墓地の附近の花屋が,吉野山からとってきたといって売出したのであるが,吉野山のは全部ヤマザクラであるから,このサクラとはちがう。染井吉野は花が多く一時に咲いてきれいであるが,落花後が見にくい。このサクラは生育がよいが30年もたつと枯れはじめ,50年ももつものはほとんどない。ここにあるものもほとんど枯れかかっているが,初代のものではなく,植継ぎしたもので,初代のものは門から登ってくる坂の途中にあるものだけである。云々……。"
 門から登ってくる途中にあるのはほとんど枯れていて,カラスウリが巻きついていた。その後まもなくこれは枯れてしまった。園内の広場のものも次第に枯れて,戦災前にすでに更新されていた。
 当時は桜博士といわれた三好学先生も存命中であったしその他にもサクラについて関心をもつ自然科学者があった。また人文科学の方面にもサクラについて研究された方々もあった。今日日本のサクラを見物にやってくる外国入がたくさんある。また外国にもサクラの名所ができつつある。このような時代になったにもかかわらず,現在の日本にはサクラの研究者(注:誤植を訂正)は一人もないといってさしつかえない。情けない状態である。しかも今日世界中にひろまっているソメヰヨシノの誕生がいまだにわからないのである。
 上に申したようにソメヰヨシノは染井の花屋から売出されたものであるが,その花が美しく生育が早いので,急に世に拡まったのであるが,そのはじまりは甚だ新しく,古くとも江戸幕末の頃と考えられる。そして明治の初頃ボツボツ民間に拡まり,熊谷堤・荒川堤・小石川植物園・上野公園等に栽培されるようになって,花が美しいことから,急に世に拡まったのである。
 ソメヰヨシノの名所としては,一番古いのが埼玉県の熊谷堤のものである。これは明治16年(1883),上野から熊谷まで汽車が開通したときに,林有章氏の尽力で植えられたもので,その後明治42年に多数植継ぎされた。今日はどうなっているか筆者は知らない。つぎに荒川堤のサクラであるが,これは大多数はサトザクラであるが,そのうち少数ソメヰヨシノを混えていた。これは明治18年荒川堤の修理の翌年,時の江北村の村長,清水謙吉氏の主唱によって植えられたものであるという。今日どうなっているか筆者はこれまた知らない。小石川植物園・上野公園等で明治・大正時代に,さかんに花が開いた古木はたいていこの時代に植えたものであるが,今日のものはその後2代を経たものが大多数である。
 さてソメヰヨシノの命名であるが,明治のはじめには単に東京でヨシノザクラといえば,このサクラを指したのであるが,事実吉野山に原産しないのであるから,故松村任三博士(東大教授)が改めてソメヰヨシノとされたのである。吉野はサクラの代名詞であるからソメヰヨシノザクラという必要はない。それでソメヰヨシノと命名されたのである。明治34年になって同博士はこれにPrunus yedoensisという学名を与えて植物学上の位置を定められた。
 このように学名もつけられ,急に世間が注意するようになって,このサクラの履歴について染井の花屋をたずねたが,これを売出した花屋はなく,古老たちも皆死んでしまっていて,これを知る方法がなかった。当時世間の風説では伊豆の大島がこのサクラの原産地であるといわれていた。幾人かの人が大島に行ったが,これをみつけることはできなかった。
 小泉源一博士は大正元年(1912)ソメヰヨシノを探して大島の植物を調査したが,メソヰヨシノを発見できず,自生しないことを発表した(東京植物学雑誌第26巻146頁)。 つづいて同博士は大正2年「ソメヰヨシノザクラの自生地」と題して"先頃児玉親輔君(1)の青森市のフォーリー氏 (U. Faurie)氏の所蔵するさく葉室に研究に行かれし序に,予が為にフォーリー氏(2)の所蔵するサクラ属全部を借用し携へ帰りて示さる。其内にある済州島産の1種のサクラは同島の600mの高地に採りしものにして,其性状はよくソメヰヨシノザクラ(Prunus yedoensis MATSUMURA)に一致す。元来此サクラは日本には最普通に栽培せらるれども,未其自生地不明なりしが,今回計らずも分明するに到りしは児玉・フォーリー両君の賜なり。深く謹謝す。"と発表された(東京植物学雑誌第27巻,第320号)。

  1) 児玉親輔旧制山口高等学校教授,シダ類の研究者  
  2) フォー一リー フランス人・植物採集家。台湾の山中で採集中,ヒルが呼吸器に入り出[血死亡。  

 つぎ大正元年(1912)5月5日,ドイツのE. KOEHNE氏はRepertorium Specierum Navarum Regni Vegetabilis第10巻50頂にPrunus yedoensis MATSUMURA, var. nudiflora KOEHNEが済州島に自生することを報告し,ソメヰヨシノの自生地不明である今日,この変種が済州島に自生することは学術上重要で興味があると述べた。このKOEHNEの用いた材料は明治41年(1908)4月14済州島居住のフランス宣教師TAQUAT(3)が同島の山中で採集したものである。この原品の1は京都大学植物学教室に保存されているという。このPrunus yedoensis var. nudifloraはエイシュウザクラ4)と呼ぶものである。この二つの事柄があって以来済州島がソメヰヨシノの原産地ではないかと思われるようになった。

  3) Taquat フランス宣教師で長く済州島におつた。大戦まで朝鮮の大邱で牧師をしていたのは同一人であると思う。  
  4) エイシュウザクラ エイシュウというのは済州の古名である。  

 しかし,まもなく大正5年(1916)には日本にきて樹木の研究をしたアメリカ人WILSONがThe cherries of Japanという書物を発刊したが,その16頁のところに,ソメヰヨシノはその形態的特徴からエドヒガンとオオシマザクラの雑種であるように思えると発表した。 このような事情になったので,はじめにはソメヰヨシノの自生を認めた小泉博士も済州島にエイシュウザクラの自生は認めるが,ソメヰヨシノの自生にを疑問をもつようになった。
 一方朝鮮の植物の権威であった中井猛之進博士は大正5年(1916)に朝鮮森林植物編第5輯に"済州島漢拏山の森林に生じ稀品なり。分布,日本に広く栽培すれど其産地を知らず" と記載している。中井博士はソメヰヨシノを済州島旅行中採取されたか,または誰かから標品をえられたか不明であるが同書中には立派な図版が載っている。またサクラについて造詣の深かった三好学先生は,その著最新植物学の下巻に"染井吉野は明治の初染井の花戸に於いて栽培せるものにして,俗に呼でヨシノザクラと云へども大和の吉野山の桜は山桜なれば之と同一ならざるは言を侯たず。染井吉野は伊豆の大島の原産なるべしとの説あれど而も予の検せる同地の桜は皆山桜にして,染井吉野の原種と認むべきものあるを見ず。嚢に此桜が朝鮮附近の済州島に自生せるを報ぜるが,而かも培養せる染井吉野の起原に関しては未詳ならず"と記述されている。このようにソメヰヨシノの原産地は済州島であるようでもあるし,何か別の起原であるようでもある。
 さて小泉博士はそれを解決するために,昭和7年(1932)4月下旬済州島にサクラを求めて旅行された。その結果は雑誌「植物分類地理」第1巻第2号178頁に"予本年4月20日済州島に渡り,済州島営林署長田中勇氏,同森林主事岩田久治氏,及び片倉角治氏の応援をえて同島のの探求に従事し,4月24日同島漢拏山の南山腹600mの山地に真のソメヰヨシノザクラ及びエイシュウザクラの天生せるを発見したり。此に於て永年学界の疑問とされしソメヰヨシノザクラの原産地も済州島なる事は確定したるも,予未だ南鮮の山地に此自然分布あるや否やを詳にせず。されば現今ソメヰヨシノザクラの原産地は済州島なり。"と発表された。
 しからばソメヰヨシノがいかにして日本に,ことに江戸に渡来したかについては,小泉博士は同上の論文においてつぎのように推察された。吉野権現は船乗りの崇拝するところであり,サクラをひじように愛好されるから,日本海を廻る船乗りが,済州島で見付けた美しいサクラをもって帰えって,吉野権現に献上したのであろう。たまたま江戸の染井の花屋が吉野に詣ったところ,美しいサクラがあるので,それを持ち帰えってヨシノザクラといって売出したのであろうと。その証拠には,吉野の某寺院には,枯れかかってはいるがエイシュウザクラカミ1本あると。また同じく船乗りの尊敬する金比羅さんにもサイシュウモミの大木が植っているが,これも済州島以外にはないのであるからそこからもって帰えって献木したものであろうと(以上は原論文を手元にもたないから記憶による)。

  補注 サイシュウモミのことは小泉論文に記載はない。  

 上の研究や推察はひじようにおもしろい。大正13年牧野先生からソメヰヨシノの自生地がわからぬということを聞いて以来,その起源について興味をもっていた筆者は,なんとか究明することはできぬかと考えていた。そして小泉博士の説について半信半疑をもっていたので,朝鮮の樹木について詳しい,石戸谷勉氏(当時京城大学医学部嘱託,現在日本大学教授,博士)に済州島や南鮮にソメヰヨシノらしいものは自在していないかと聞いた。同氏は南鮮の西海岸にも済州島にも似たようなものをみたことはあるが確ではないとの返事であった。また当時昌慶苑には多数のソメヰヨシノが植えてあり,花時には大変なにぎやかさであったが,苑長の下群山誠一氏にソメヰヨシノの実生をしたことがないかと聞いたところ,実生をしたところが,いろいろの変り物をえた。これもそれであるといって苑内のソメヰヨシノ並木の補植のもの数本を示された。しかし,筆者にはそれ程変っているとは思えなかった。それはヤマザクラの実生をするといろいろと変ったものがでることを知っていたので,この程度ならばと思ったからである。

  補注 「原色韓国植物図鑑」には昌慶苑植栽のサクラの写真が掲載されている。撮影時期は1995年であるから、それより60年ほど前であるから、同じものではないだろう。  

 小泉説を疑う第1の理由は,ソメヰヨシノは結実性がひじように低いということである。天然の植物でこのように結実性の低いものは,地下茎・珠芽あるいは塊根(不定芽をだす)で繁殖するものでない限りは,自然に淘汰されて絶滅してしまうわけである。その点どうしても入為的の産物でなければならぬと推察される。第2の理由はソメヰヨシノが,他のサクラにくらべて異常に生育が早いことである。これは雑種強勢ということを連想させる。栽培のソメヰヨシノは接木によって増殖されているが,接木後3へ4年もたてば開花をはじめ,10年もたてぽ相当な大木となる。接木ということは開花促進には関連しているが,樹勢が強大で生長が早いということにはなんの関係もない。してみるとソメヰヨシノは雑種ではないかとの疑が濃くなる。他のサクラが100年以上2~300年も生存するのに,ソメヰヨシノが3~40年で枯死するというのは雑種性と関係があるかどうかはわからない。雑種強勢の研究は生存期間の短かい生物でなされているので寿命については今のところなにもいうことはできない。臆測が許されるならば,雑種強勢で生育の盛んなものは早く生長しきってしまって早く枯死するといいたいのである。
 筆者はこのようにソメヰヨシノの自然生に疑をもっていたが,上述のように小泉博士によって済州島にソメヰヨシノの自生することが発表された。しかしその記録には状態数量などについては何の記載もない。そこで昭和8年(1933)4月京都大学に小泉博士を訪ね,その状態などについて伺った。それを要約すればつぎのとおりである。
(1)夕景遅く漢拏山南側(西帰浦側)山腹海抜600m位の所に1本のソメヰヨシノを発見した。時間の関係上他を調査することができなかった。
(2)ソメヰヨシノ,エイシュザクラおよびヒガンザクラの3本が並立していた。
(3)牧場のようやく終らんとする山腹で,谷間に点々と森林の切り残された所がある。その一つの中にこのソメヰヨシノは存在した。
(4)ソメヰヨシノは根本から枝分れして,あまり老大木ではない。
 さて実際に見た人には,それが自然生か,栽植か,または栽植したものの実生かなどの区別が大体はつくものであるが,以上の事柄だけでは,即座に済州島をもってソメヰヨシノの自生地とするには,ちゆうちよせざるをえない。植物学上の常識として,その地がある植物の自生地であるならば,多くの場合につぎのようなことがあると考えられる。
(1)その植物が天然植生中に生育すること。
(2)数量的に多いこと。
(3)変種・近似種が並存するとか,またはその種の変異性の幅がひろいこと。
(4)実生を発生していること。
(5)樹木ならば老木より稚樹に至るまであること。
 このような考えをもって,小泉博士の追調査をしてみたいと,昭和8年4月29日夜京城を出発して済州島に向った。小泉博士と同様に田中勇,岩田久治両氏の案内でソメヰヨシノを中心にしてサクラの調査をした。時期すでにおそく小泉博士の発見されたソメヰヨシノの花は終っていたが,その根本に立って遅れ咲を一枝得た。並立しているエイシュウザクラもヒガソザクラも落花してしまっていた。
 附近の植生をみるに山麓一帯は牧場となり,牛馬の放牧のため海抜約700mまで森林は伐採されているが,小さい谷間は放牧に不適当のため,あちこち樹林を残していた。そのソメヰヨシノは,このような谷間にあった。そこはイヌグス・タブノキ・シラカシ・アカメガシワ・サンゴジュ・ムラサキシキブ・イヌザシショウ・イスノキ・ニワトコなどの樹木が茂り,それにキヅタ・サルナシ・ツルウメモドキ・ムベ・ノイバラなどが巻きつき,その下にムサシアブミ・マムシグサ等の天南星科の宿根草やミズヒキグサ・カンアオイ・ジュウモンジシダなどの草本が点在し,暖帯性の植生を示していた。
 植生状態からは周囲が牧場であっても,天然状態とみなすべきであるが,ソメヰヨシノの数はただ1本であり,稚樹がみられるでもなく,いずれも30年生位のヒガンザクラ・エイシュウザクラ,ソメヰヨシノが互に抱きあって生育していた。このソメヰヨシノは周囲が60cmあまりで若々しい感じを与えた。 そこで単に自然科学的に,その履歴を調査するだけでなく,人文的な歴史考察をしてみる必要がある。
(1)日本人(当時は内地人)は何時頃から済州島に出入したか。
(2)移住したのは何時頃か。
(3)済州島でいつ頃からソメヰヨシノが栽培されておるか。
(4)この天然生といわれるソメヰヨシノに似たサクラはなかったか。
(5)森林伐採と牧場との関係はどうか。
 日本人が済州島へ出入したのは,おそらく相当古いことで,この調査は困難であろう。しかし日本でソメヰヨシノの栽培が流行してから後,移植されたことを考えるならばそれ程古いことをたずねる必要もない。いつ頃移住したかというに,明治38年(1905)に藤田覚次郎氏が,時の韓国政府から10ヵ年の契約でシイタケ採取の許可をえたが,おそらく同氏が39年に移住したのが初めてであろうという。その後シイタケ栽培の人々が次第に入島し,またその他の仕事に従事する人々が多くなって,昭和8年頃には多数の日本人が住んでいた。また3万人以上の済州島の人たちが関西方面に行っていたので,日本との交通はひじようにさかんであった。しかし,このソメヰヨシノの推定樹令を30年とすれば,最初の日本入がもってきたとしても,その頃,一面に森林であったと思われる山腹のこの小谷に,ソメヰヨシノを植えたということは,想像もできない。事実その当時(昭和8年)済州島に植えられていたソメヰヨシノは20年以内のものであった。
 この谷間に近いところに最初にソメヰヨシノを植えた人は右面西娯里の西本正治氏で,同氏の蜜柑山にみられるものがそれであるという。筆者はそのソメヰヨシノを見なかったが,おそらく若木であって,それがその谷間のものの実生親であるということは考えられない。
 次には森林状態の変化であるが,漢肇山は封山であったから,以前には海岸線へ4kmぐらいまでは密林で常緑濶葉樹が茂っており,その間に桜樹が点在していたという。しかし土民がサクラの縁板を珍重する風習があるので,大木は盗伐されていたという。その後椎茸山の発展,火田のための濫伐がたたって,当時は海抜700m近くまでも牧場となり,800m以上においても椎茸用材が伐採されていた。しかし筆者の旅行時においても800m附近以上では各種のサクラが多数見事に開花していた。かって海岸近くまでみられたというサクラの種類については,移住日本人にも土民にも何もわかっていなかった。
 以上はこのソメヰヨシノが小泉博士の鑑定のとおり,日本はもちろん諸外国にまで栽培されているソメヰヨシノと同じものであるとみなして述べてきたのであるが,実際はどうか。図版に示してある(別ページに示す:aは普通のソメイヨシノ、bは済州島産のソメイヨシノ)のは現在栽培されているソメヰシノと済州島のそのソメヰヨシノとである。その相違点を述べると,前者は葉が古くなっても裏面葉脈に沿って多少の毛を残すが,後者にはほとんどみられない。花梗は後者がやや短かい。また前者は,がくに毛があるにかかわらず後者にはみられない。しかしこれらの3相違点が形態的に種を区別する形質となるかというに,これは疑問である。現在接木によって増殖されている栽培のソメヰヨシノの中にも,栽培される場所によって,かなり多くの生態型を生じているではないかと思われる。まして実生を作ったならば種々の変異体を生ずると思われる。その点,このソメヰヨシノが普通の栽培品より少し異ることは,むしろ済州島を自生地と認めることに有利な証拠となる。
 いろいろと述べてきたが,今日では済州島や南鮮の実地調査は実行困難となっている。従って,これ以上の調査は困難であり,実地調査からの推論はできない。そのため済州島がソメヰヨシノの原産地であるかどうかを決定することは,少くとも当分の間不可能となった。
 筆者は昭和21年11月日本へ帰えってぎて以来,なんとかこの問題を解決したいと思い,昭和26年(1951)ソメヰヨシノの種子を採り,昭和27年播種した。今年(1958)7年生となるがいまだ開花しないので,今春は接木をおこなった。花は見ないが,若芽の色と葉形,樹形と樹膚にはひじょうな大きな変異がみられる。ヤマザクラの実生にも大きな変異がみられるが,それ以上である。しかもオオシマザクラに似たものからヒガソザクラに似たもの,親木のソメヰヨシノに似たものまでいろいろ雑多に分離した。この点からすると,どうもソメヰヨシノは雑種ではないかとの疑が濃くなる。これと同じ実生を小泉博士が晩年におこなわれたことを知って,昨年(1957)の暮に京都大学を訪問した。花も葉もなかったが,樹形には相当の変異が認められた。

  補注 小泉博士がソメイヨシノの種子を集めて播種したことは「植物分類地理巻十五第四号一一六頁(1954年)にショートノートとして村田源博士が書き記している。その実生から育った株が一九五〇年に開花し、村田博士はウバヒガン型、ソメイヨシノ型とソメイヨシノ-オオシマザクラ中間型の三型があったと報告している。竹中博士は村田博士とは別途に京都大学植栽の実生株の観察結果を「サクラの研究(第1報):ソメイヨシノの起源」(Bot. Mag. Tokyo 75: 278-287, 1962)に報告しているが、村田博士の結果とは若干異なっている。因みに竹中博士は自著論文にこのノートを引用しておらず、このノートの存在を知らなかったようだ。村田博士によれば、実生が複数の親木から採集されたこと、管理した状況のもとで受粉させたのではないこと、ソメイヨシノの植栽された近傍(100メートルほどの距離という)にオオシマザクラ、イトザクラ、ウバヒガンなどのサクラ種が植えられていたという理由から、この結果を雑種起源説の裏付け資料とするのに慎重であった。  

 一方昭和32年(1957)と本年は交配実験もおこなった。今のところ,オオシマザクラ×エドヒガン,オオシマザクラ×シダレザクラ,およびオオシマザクラ×ヒガンザクラ,そしてそれらの反対の組合せだけである。これ等の苗木はいまだ小さくて判定は困難であるが,ソメヰヨシノに似ていることは確かである。来春はこれ等の穂を接木に用い, 1日も早く開花させたいと思っている。また上の交配以外にもいろいろの交配組合せを計画している。
 もしこれらの交配によってソメヰヨシノそのものを作ることができたならぽ,済州島のこのソメヰヨシノはなんであろうか。これは,天然交雑によって他のものからできたのであろうか。もしウィルソソの推察した如く,ソメヰヨシノが,オオシマザクラとエドヒガンとの雑種であるとしても,オオシマザクラやエドヒガンに変異が多いならば,それらの交配によってはいろいろのものができるはずである。従って現在のソメヰヨシノと同一のものを再現することは多数の個体聞の交配組合せによってのみ,はじめてできることである。これは口にはいうべくして,実際にはひじように困難なことである。そこでオオシマザクラに変異が多いかどうかを知るために本年5月大島に渡った。開花を過ぎていたので,くわしいことはわからないが,樹形や実果の形および葉形などからみると,ヤマザクラのように多様的ではない。まだエドヒガンの自生地は訪問していないので,これの変異はわからないが,もしオオシマザクラのように比較的単系であるならば,ソメヰヨシノの再現は割合簡単にできるであろう。この旅行では大島公園でひじようにおもしろいことを聞いた。それは大島ではソメヰヨシノ(栽植品)の結実が非常によいということである。これが気温のよいことその他の環境条件によるものか,あるいはオオシマザクラがひじょうに多い中に栽植されているので,その花粉がソメヰヨシノの雌しべに授粉するのかどうかは不明である。しかし上のような雑種であるならば,オオシマザクラの花粉が結実に有効であることは申すまでもない。雑種その他において花粉が少しでも不完全である場合には結実がひじように悪いことが多くのもので知られている。しかし,その場合でも胚珠は受精能力が高いことが多い。従ってソメヰヨシノの花粉が多少不完全のため結実が悪いのなら,オオシマザクラの花粉を用いれば結実がよいわけである。大島公園のかた達の好意によって,同公園のソメヰヨシノの種子の送付を受けた。これを播種して内地産ソメヰヨシノの子孫との分離比を比較すれば,何等かの結果がえられると思う。また来年はソメヰヨシノ×オオシマザクラ,ソメヰヨシノ×ソメヰヨシノの2交配もおこなって,その分離差をくらべてみたいと思っている。
 ソメヰヨシノが雑種であるならば,その細胞学的研究により,減数分裂に異状がありはしないかとの期待のもとにおこなった観察は,雑種であるともいえるし,そうでないともいえる程度の異状さでしかなかった(1954)。サクラの国日本で,今日最ももてはやされているソメヰヨシノの起源がわからない,などということは,真に残念なことであるので,読者諸賢のご協力を求めるために,今までのいきさつを書いてみたのである。(Y.K.T.)