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金印偽造説への疑問

根拠地の志賀島


安曇族と金印の謎

AD57年 奴国の使者は 遠く洛陽まで出かけたのか 
後漢の光武帝は「漢委奴國王」と刻印した金印を使者に授けて厚遇した
なぜ 洛陽まで出かける必要性があったのか 
2ヶ月後には 光武帝は亡くなっている 
なぜ 金印が志賀島から出てきたのか

これらの謎を解くことで 安曇族の活動がわかってくる

志賀島から出土した金印が鍵
 
 
志賀島からは AD57年に後漢の光武帝から授かった「漢委奴國王(カンノワノナノコクオウ)」と彫られた金印が 天明4年(1784)に発見され 現在 福岡市立博物館に常時展示(実物)されている。 この金印は 底辺の一辺が2.3cm 高さ2.2cmの正四角柱 重さ108.7g 金95% 上に蛇を象った鈕(チュウ)と呼ばれるつまみが着いていて 綬(ジュ)とよばれる組みひもを通す穴が開いている。その綬には紫色の紐が通っていたことは中国史書「翰苑」でわかっている。すなわち蛇鈕に紫綬を通した金印ということであるが 漢王朝はこのつまみの形状 通した紐の色 印の材質によって 身分の差を表していた。漢王朝の内臣は亀 蛇は東夷南蛮 すなわち漢を中心にして東と南の異民族 紐の色も紫綬は公候将軍クラス 金は銀銅より上の最上格で 現在のオリンピックのメダルなどと同じである。だから 倭国の一王国に過ぎない奴国が金印蛇鈕紫綬を授かったことは 破格の厚遇であった。この なぜ厚遇かということと 金印と安曇族の結びつきを解明することが 安曇族を解明する鍵である

金印蛇鈕紫綬であったことの確認
 金印が金でできていることは 実物が福岡市博物館(下をクリックすれば写真が見れる)に展示されているから確認できる。つまみに当たる鈕(チュウ)が蛇であることもわかる。
 だが 金印紫綬という その紫綬は 実物が発見されたとき既についてなかったから確認はできない。
 ところが 幸い 唐の時代にできたという『翰苑』(見難いが上写真)の倭国の項に「中元之際紫綬之榮」(上写真左から9行目上太字)に記されていることからわかる。

 金印発光処記念碑    金印公園(急傾斜地)  公園前道路を挟んで海  海辺は船の発着不可

委は倭の略字で 奴国は倭の中の一国
 金印には「漢委奴國王」と彫られていることから 「カンノワノナコクオウ」と読まずに 委はイで奴をド と読んで伊都(現在の糸島半島)という考えもあるが 後漢書倭伝に「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」(建武中元二年<AD57年>に倭の奴国から 大夫(タイフ)と自称する使人が貢物を奉じて朝賀した。<奴国は>倭国の極南に位置する。光武帝は印綬を賜れた)とある。
 この短い文の中に 刻印に文字「委」が「倭」を略したものであり 奴国が倭の中の一国であることがわかる。また当時の後漢が 日本列島の国についての情報をもっていたことも知ることができる。

後漢の光武帝が金印を授けたのは奴国だけ
 後漢書をもとに 後漢が金印を授けた年と相手を調べた 大谷光男(「漢委奴國王」金印展)によると 光武帝が金印を授けたのは奴国王だけだった。後漢の時代に金印を授かったと書いてある国は 次のとおり。 
AD97年:ビルマ方面の国
 100年:四川省南の国
 100年:西域の国
 116年:匈奴
 122年:西羌王
 133年:南匈奴
 
★link 金印出土地航空写真
 400dpiに拡大して 一旦島沿いにスクロールすると右端に防波堤だけが見える(渡船場) そこから左へスクロールして 三つ小さな岬(凸)を過ぎたところの道路沿いの凹地(左は海)が金印出土(発光)地の金印公園 勝馬の反対側に位置し 急峻な地形なので 船は近づけない

★link 福岡市博物館  (きれいな金印の写真が出ている)
天明4年(1784) 志賀島で発見された本物の金印が展示されている 発見に関する記事等金印の記事・写真豊富