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空想と推理
-「亶洲は北部九州の安曇族の守備範囲」
-「BC500年ごろに 中国江南の海人は日本列島の情報を持っていた」-
-「四国に安曇族ゆかりの地がない理由」-
-「九州の古代史」-
-「安曇野の山麓踏査 失敗の巻」-
-「種子島は亶洲ではない」-
-「紀元前の先端技術導入プロジェクト」-
-「安曇族が 徐福の水先案内をつとめた」-
-安曇族と徐福の接点-
−弥生人口論-
マルサスは人口論で「人口は妨げがなければ、幾何級数的に増加するが、食料(生活資料)は算術的にしか増加しない」と述べた。難しい解釈は別として ここでは 食料が増産されれば人口は増えると単純に受け止めておく。
生態学では 食べられる側のウサギやネズミと食べる側のヤマネコやキツネとの関係などを例に挙げて ウサギが増えればヤマネコが増え ウサギが減ればヤマネコも減るという関係があるという。また 肥料すなわち食料を施さないと 植物は育たないし増えない。
わたしたちの祖先である弥生人の人口を推理するとき 植物や動物を事例に出すことは はなはだ失礼かと思うが 弥生人口論をシンプルに考えるにはわかりやすいので失礼する。
ところで 日本列島へ渡来した弥生人の人口については、国立民族学博物館の小山修三さんが、縄文時代晩期の人口を七万六千人、弥生時代の人口を五十九万人と推計しているから、この数値の自然増を無視して、単純に弥生人口から縄文人口を引くと約五十万人が渡来した人数ということになる。
また、人類学者の埴原和郎さんは、小山の縄文時代晩期の人口と、沢田吾一が『延喜式』の租税高から推計した奈良時代の人口五百四十万人を基に計算した。計算結果は三百万人と出たが、計算に使ったデータに推計や仮定が入っているので、その分を割り引いて、弥生時代の渡来人の目安を百万人としている。
その他にも、弥生人は、縄文人に比べて、増加率が高かったから、もっと少ない渡来数だったのではないかという人もいる。
大野晋さんは「日本語は東南アジア経由で南インドから伝わったのではないか」という説を出されている。また「水田稲作技術は中国大陸から入っているが 水田稲作に関する中国大陸の言葉は伝わっていない」とも指摘されている。
これらの考えも加えて 拙著「安曇族」で 言葉は人数が多い方で決まると書き 弥生人の渡来数は縄文人に比べて少なかった。一方 縄文人は好奇心が強い集団だから日本列島に 海を渡って水田稲作技術が入ってくるといち早くその技術を真似て普及し 結果 食糧事情はかなりよくなたはずであると考える。
ということで 冒頭のマルサスの人口論や生態学の知見を当てはめて弥生人としての渡来人口を考えると 小山の挙げている縄文時代晩期の人口が76,000人であったとして 一方 食料事情がよくなり 25〜30年で倍々と等比級数的に増えて次の世代に交代するとすれば わずか100年足らずで 小山の弥生人口59万人に達することになる。
だから 安曇族の紹介斡旋で日本列島各地に水田稲作技術者が入植すれば その人数は 万の単位の人数でなくても 千の単位でなくても 100年後には59万人に達することが出来たであろうと推理する。