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《雑記帳1月a b c d e

1月11日 雑文(掲示板に書いたことの再掲載+)

天王台文庫 ハイエンドノベル振興会 掲示板での呼びかけに対し、本筋とは関係ない部分に強く反応してしまったことから、余計な議論(?)を引き起こしてしまった模様
 しかもその議論が面白いと来ている。性質が悪い。
 向こうで提示された問題について考えていきたいけど、その前にこっち、ONE、Kanonブレイクの理由を速効で片づける必要がありそうだったんで、書き散らし。

○ゲームとしてのONE、それ以外としてのONE その1
 まずは最近ちょっと話題になってるONE、Kanonがブレイクした理由について少し。
 まず、ここでいうブレイクが「売れた」という意味だとすると、ONE、Kanonが 何故売れたかっていうとそれはONEの内容についての口コミに他ならない。  つまり、プレイした人の多くに凄く評判が良かったってこと。
 そしてONEのどこが評判良かったかというと、勿論、総合としてのONEもあるだ ろうけど、

ゲームとしてのONE
エロとしてのONE
18禁としてのONE
美少女モノとしてのONE
CG集としてのONE
音楽としてのONE
物語としてのONE
絵と音とテキストの調和がもたらす物語表現としてのONE
(以下Toheartや他の作品の後継としての)
二次創作の素材としてのONE
会話のツールとしてのONE

 …というような幾つかの観点があって、それぞれで話題になっていた。
 そのうちの上5つっていうのは、否定 も多かったわけで、そこをネックとしてONEの評価を下げる人もいたわけだけれど。

「読み物としてはいいけど、ゲームとしては駄目。全体としては鳩より下」
「話や音楽はいいけどフラグ立てのゲーム部分が邪魔。終盤で話が盛り上がっ たところでちょっとした選択ミスでバッドエンドに行くのは興ざめしてしまう」

 一部の人間(私なんか)はゲームとしてのONEっていうのを凄く評価していた けれど(何故なら、一見すると物語を楽しむにはネックでしかないゲーム部分 や終盤に頻発するバッドエンドには物語的意味があって、その意味に気付くと、 ONEはゲームならではの表現を行った非常に面白い物語作品になるからだ)、 ゲームとしてのONEの意味を気付いていないONEプレイヤーが多かった、ゲーム としてのONEが評判悪かったというのは、ゲームとしてのONEの面白さの啓蒙であるウチのONEレビューで ONEの評価をアップしたという反応が多かった事からも的外れでは無いと思う。

○ゲームとしてのONE、それ以外としてのONE その2
 ONEの次回作Kanonは、そういったONEで評判の悪かった「ゲーム要素」を(表向 きは)極限まで排除した、パソコンで読む、絵と音とテキストの調和がもたらす 物語表現、いうなれば電子小説だった。アトラク・ナクアの如くに。

そしてKanonはONE以上にブレイクした。

 “私は”ゲームとしてのONEやKanonを高く評価しているが、ブレイクした理由 はゲームだからだったとは残念ながら思えない。
 それらはゲームとして18禁ゲーム市場に出現したからブレイクしたとは思うが、 ブレイクしたのはゲームやエロとしてのONE、Kanonではなく、

音楽としての
物語としての
絵と音とテキストの調和がもたらす物語表現としての
二次創作の素材としての
会話のツールとしての
所有できる「モノ」としての
パソコン専用の映画ソフトとしての

 それらだったと思うのだ。
 形式としてはそれらこそがゲームだということもできるが、私はそれはゲーム  では無くそれに似た何か、電子小説とでもいうべき物だと思う。

○ゲームとしてのONE、それ以外としてのONE その3
 Kanon、ONE、そしてFF8はゲームではなく、PC、PSという規格のビデオソフトで あったというのは極論だろうか。
 それらは未編集のまま売り出される。
 買い手は自分で編集していかなければ物語を楽しめない。
 購入者にはそれが嫌だと嫌う人と、その自由な編集操作で物語に影響を与えられるのが楽しいんじゃないかという 人がいる。

 ONEは非常に編集操作が簡単だが失敗しやすく、だが失敗することに物語的な 意味があった。
 Kanonは編集操作が簡単で、しかもどう編集しても殆ど誰も失敗しないような仕 様になっており、皆が用意された物語を簡単に楽しめた。
 FF8は編集操作が楽しいのが売りだったが、複雑で面倒だった。しかも操作と物 語編集には殆ど繋がりが無く、物語的に重要そうな場所では機械が勝手に編集 してくれた。

○それから
 物語の進行はミッションクリアのご褒美であり、ゲームのオマケ、オマケを売 りにして本体であるゲームを売るのがFF、オマケである物語を売る為の理由に ゲームをとってつけたのがONEとかKanonという見方も出来る。
 ONEで物語が評価されて、ゲームが邪魔だと言われたんでKanonは物語だけで売 ってみました。でも流通はゲームですし、見ようによってはゲームです、みた いな。 

○その上でマルチレスっぽく。キーワード「泣ける」
 ONE、Kanonがゲームで表現されたことを私は凄く評価してるんだけど、ブレイクの理由はそれではなく、でも、18禁ゲーム市場で発表されたからウケたんだろうというのは確信できる。
 エヴァが限られた受け手OVAでなく、不特定多数に向けてTV放映されたからブレイクしたのと逆に、ONEの次回作として、そのファンやONEの評判を聞いていた限られた人間を主な対象にしていたからこそ、一部の人間による局地的なブレイクを引き起こしたのだと。

 なんにせよ、ブレイクしたのはONE、Kanonという物語だろう。

 「泣ける」「泣けた」を大声で連呼したそれらの熱狂的なファンは、それがゲームであったから支持したんだろうか? ゲームで泣けることがそれ程衝撃だったんだろうか?
 そうじゃないだろうというところから考えたのが、この前の雑記の「少女趣味的技法が降りて来た」だった。
 が、色んな所から反対意見とか聞いたり自分で考え直したりして、やっぱ違うかと思い直す。
 少女漫画好き(素養を隠し持っていた人間を含めて)が飛びついたってのはWeb回ってみて、また自分も含めてアリだとは思うのだけれど、それは確かに必要条件ではない。

 結局、あれらの物語のブレイクの最大の理由はこちら↓の12/19の日記に書いてあることが正しいのかもしれない。トラウマの裏返し。

http://www.sunfield.ne.jp/~yukio-m/index.htm

#なんで他のメディアではONE、Kanonのような物語がブレイクしないで18禁ゲーム業界でだけブレイクしたかって、ONE、Kanonで語られるようなトラウマへの癒しを求めている人間がたまたま18禁ゲーマー、或いは二十歳周辺の若者に多かったのだとかいう分析もできるかもしれないなぁ…

 勿論、こちらこちらと同様、そんな事と関係なく、良い作品だったからブレイクしたと信じたくもあるのですが…。

 ともあれ、ブレイクを担った多くの人間にとってはONE、Kanonはゲームである意味はあまりなく、語られた物語と発表された市場が重要だったのではないかというのが私の見解。

○やっと初めに戻れたか?
 ONEはゲームとして、ゲームならではの演出技法を用いて完成している物語なので、考えていくと「ゲームという表現形式」の特性が見えてくるのは確か。
 同系等の漫画や小説や映画、或いはゲーム性を排除したエルフやアリスソフトのオマケディスクなんかにあった電子小説や、或いはアトラク・ナクアやデアボリカと比べてみるのも面白いかもしれない。

 ゲームの場合、バッドエンドに辿り着いてもそれが自分の考えた行動(ゲーム操 作)の正当な結果ならばプレイヤーはそれは自分の所為だと納得する。作品に不満は言わない。
 しかし、システム上どうやってもあらかじめ決められた悲劇に辿り着くようにし か動けないのであれば、多くは作品に不満を漏らす。時にはそれが悲劇でなく、ハ ッピーエンドだとしても。金と時間を払ってまで、なんでやりたくないことをしなくてはならないんだよ。「自由度が低いなぁ」
 簡単な面でも自分の操作ミスで死ぬのは納得。難しい面でも、上手く操作すればクリアできるなら納得。
 でも物語の演出などで、どのように操作しても倒せない敵キャラ、クリアできないトラップが出てくるのは納得しがたい。
 自分のした操作と違う行動を自キャラが取るゲーム(自由に動けないゲーム含む)は興醒め。
 また、ある操作をすればそこから自キャラが勝手に動き出してしまうのでは、 最終ボスを自動的に倒してくれてもあまり面白くは無い。
 また、それは、ゲームの中にある「時間を費やすことや頭を使う労力がなんらかの形で報われる」という快感を排除してしまうからだし、操作キャラクターへのプレイヤーの感情移入を疎外し、「嫌だ、そんな事はしたくない、でもしなくてはゲームはクリアできないんだよなぁ、…やっぱゲームかぁ」と、楽しい夢に没頭していた自分を現実に引き戻してしまうからでもある。
#ここら辺は、スーパーロボット大戦なんかにおいて、シナリオ上、顔見せして数ターンで逃亡するイベントキャラを倒したいと多くのプレイヤーが望むのは何故なんだろうとかいうことを考えると分かりやすいかもしれない。

ONEは、プレイヤーが望んで女の子と仲良くなる為の行動が=その女の子と別れるというシナリオを進める行動であり、一部シナリオに置いては攻略対象の女の子を傷つけなくては恋人になれないというゲームだった。
 別れの後に再会があって最終的にはハッピーエンドなんだから、それを強調する為に一旦落とす展開に持っていったというありがちな物語作法だけれど、ONEが秀逸なのはその部分を物語設定的に「絆を深める=別れる条件=再会条件」と一本化させてしかも必然性を持たせたという部分にある。
 さらにONEはゲームである為にそこに「=ゲームのクリア条件」なんてのが加わって来て「別れる=嫌だ、そんな事はしたくない」というプレイヤーの感情まで物語に組み込んで、そこにテーマとしての「好きになればなるほどいつか来るかもしれない別れが怖い」という部分を想起させて、別れを嫌って好きな相手との幸せな思い出だけを反復して生きていく「永遠」の世界を志向する操作キャラの気持ちにプレイヤーをシンクロさせている。
 そして止めに、ヒロインを本当に好きになると、別れの可能性のある現実を放棄して思い出の中の彼女との永遠に続く夢を主人公は選ぶ(=現実の彼女と別れる)、今まで何度もセーブロードを繰り返し繰り返しプレイしたゲーム部分はその「永遠」だったというオチ。
 1年間も夢の中で彼女のことを何度も何度も回想し、彼女との永遠に壊れない絆を思い出の中に見つけたとき、主人公は現実に帰り、そこで待っている彼女と再会したのだという…。

 …シナリオライターが物語を語るのに非常に上手くゲームというシステムを使っている。

○ゲームという表現形式が得意な演出・不得意な演出
 物語をゲームで上手く語る為に、プレイヤーに不快感を与えるというネックも含めたゲーム性にONEは物語的意味を持たせていた。
 不快感を味合わせるのにゲームを利用したのだ。
 物語として完成している筈のONEで多くのプレイヤーが不満を言った場所はゲームが不得手とする演出であったとかいうのは、的外れな気がする。

 かといって、ONEはゲームだからこそ語れた物語だ、ONEがブレイクしたのはそれがゲームであることですと言い切って、同系等の物語を扱った他のメディアと比較するのもナンカチガウ。ONEがゲームとして面白いのはシナリオライターのゲームという枠の使い方が上手かったんであって、ゲームという表現形式自体がどうこうという証明にはならない。…Kanonなんて、ゲーム性をとことん排除していき、残った僅かなゲーム部分にも物語としての意味、匂いを持たせてゲームの匂いを消し去ることでブレイクしたっていう節もあるし。
 うーん、ゲームという表現形式を見極めるには、ONE、Kanonよりも、ゲームでしか語れない物語を志向し、ゲーム性を色濃く残したまま、そこに意味を持たせた「風のクロノア」や「AZEL」「アナザーマインド」なんかで見たほうが分かりやすいんじゃないかな…とか思ったり。
 逆に、ゲームからゲーム性を排除していくことでそこから出て来たKanonやアトラク・ナクアみたいな電子小説とサウンドノベルを比べてみたりとか。

 どんな表現形式にも特性がある。ゲームにもある。それを得手不得手と感じさせるのは、使い手の力量である…なんて結論じゃまずいかなぁ。
 でも、文章でしか語れないもの、絵でしか語れないもの、音でしか表現できないもの…物語を語る上で、それらが全部使えて、それなのに表現の得手不得手があるっていうのは凄く贅沢な気が。…いや、それを見極めようって話なのか。
 「ONE」とか「クロノア」「Kanon」を見てると、使いこなす才能さえあれば、ゲームって物語表現者にとっては最高の場所、最強のメディアなんじゃないかって気がします。

 …駄目だ、萌えてるだけに目が曇ってるよ俺。

1月12日 最高の思い出

 非電源系ゲーマーに有名な、馬場秀和さんの『RPG世代論 −あるいは盛年の主張−』というものがある。
 これは非常に面白いコラムで、さらにRPGという部分に殆ど何を当てはめても成立してしまったりする。
 映画でもいいし、演劇でも狂言でもいいし、SLGでもいいし、電源有りRPGでもいいし…、18禁ゲームでもいい。

FFや一部のノベルゲームがゲームであることを否定していったり、18禁ゲームから18禁要素が消えていく様は、ある意味、日本のTRPGがGを捨てていった様を思い起こさせる。
 だからTRPGのようにいずれ衰退していくかどうかちうのはしらないけれど。

実家に帰省するとき読んでいたキリンヤガの中に以下のような部分があった。

「あのときは気づかなかったことだが、ある社会がユートピアでいられるのはほんの一瞬なのだ。いったん完璧な状態になったあとは、どんな変化があってもそれはユートピアではなくなってしまうのだが、社会というのはそもそも成長して進歩するものなのだ」

 誰かにとっての「RPG」はユートピア」だった。
 誰かにとっての「RP」はユートピアだった。
 誰かにとっての「R」はユートピアだった。
 皆にとって「ドラクエ」はユートピアだった。
 多くにとって「VF2」はユートピアだった。
 私にとっての「風のクロノア」や「ONE」はユートピアだった。

ゲーム、或いは18禁ゲームという枠としての”皆の”ユートピアは知らずに過ぎ去ったのかもしれない。
 だがそれは過去に幾度も繰り返されたことで、他の枠でも同様だ。その度にそこから離れていった人達はたくさんいた。
 そして枠が変化を続けて何かとしてのユートピアになって、去った人間がまた帰ってくるということもたくさんあった。最近ではアニメという枠にエヴァで戻ってきた人が多かった。

 そういう物だと思う。それでいいと思う。

さて、富樫ヨーコというモータージャーナリストはこんなことを言っている。

「この年がモータースポーツ史上に残る“最高の年”だということに、その時は皆無我夢中で気がついていなかったかもしれない」

心の師匠の一人であるグッチーさんはこんな事を言っている。

“永遠”って何でしょう?それは、“思い出”なんじゃないかと思います。でも、人は思い出の中では生きられない。ずっとその中に留まることは、その後の成長も、その次にある新しい世界もすべて放棄してしまうことになります。
でも、本当にそうでしょうか?思い出ってそれだけのものでしょうか?
いや、それは違うんじゃないか、と。楽しい思い出や美しい思い出は、それだけで先に進んで行く原動力になってくれますし、辛くなった時、ふらっとその中に舞い戻って心を癒し、再び現実と向き合う力を蓄えることができる栄養補給の場にもなる、そんなポジティブな一面を持っている。私はそう思います。
大事なのは、そこで“起こった事実”ではなくて、“その時感じた自分の気持ち”なのではないでしょうか。世界は時の流れとともに留まることなく変化を続け、過去の出来事などは、次々に訪れる“今”に埋もれてゆくかもしれません。でも、そこで感じた“喜び”や“ささやかな幸せ”はずっと変わらない“永遠”なのではないかと。

 人が過去について語らずにはいられない理由、自分がONEやゲームについて語らずにはいられない理由にふと思いを馳せる。
 物語というのは、受け手達にとっての共通体験。

 あの日あの時、誰かと体験した思い出、そこにあった自分の気持ち…

「一生エドガーの名は忘れない。それと同じように、シャア、貴方のことを好きな人を知ってる。だから…」
「君をマリーベルにしなくて良かった」
高橋なの「そして君に会いに行く」より

 皆が体験した最高の年、最高の作品。
 それを伝えること、伝えられることは思い出させること。
 そこにあったそれぞれの気持ち、自分の気持ちを。

事実、史実、そして想いを残していくということは、そういうことなのかもしれない。

とらちゃ箱のデモを見ながら、ふと、とらハという素晴らしさもやっぱどっかに残しておかなばなるまいと闘志がみなぎる今日このごろ。
 しかし、如何にすればあの素晴らしさを伝えられるのかは大いに迷うところである。はにゃーん、とか、萌えー、では駄目だよなぁ、やぱし。

…考えてみれば、ゲームという表現形式が得意な演出・不得意な演出を見極める為の道具として、ゲームと比べるために非ゲームとしてのONE、Kanonを使うのはややこしすぎる(これらはゲームとしても完成していると同時に非ゲームとしても完成しているといえるから)ってのは、代わりに非ゲームとしての「とらハ2」なんかを使うって手もあるにはあるんだよなぁ。視点の移動による操作キャラが知り得ないプレイヤーの視点の導入とか…、いや、それをいえばFFなんかのストーリー先導型コンピュータRPGとかの方がいいか?



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