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《雑記帳5月》
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5月10日 ここ数日は心身ともにかなり駄目駄目です

 ようやっとブギーポップ最終回を見る。
 確かにこれは喋りすぎ。
 で、シリーズ全体を見て思ったのだけれど、この作品、村井さだゆき@ララのファーストコンサートfromファンシーララの使い方間違っとるんじゃなかろうか。
 風景の中から物語を見つけ出すプロフェッショナルに、物語の中の風景ばっかり書かせたのはどうかと思う。
 どうせ村井脚本でやるなら、新たな人物や時間、事件を動かすのではなく、既存のそれらの中に内包され、しかし語られなかった別の物語を見せてくれれば良かったのに。
 最終回で語られた卒業式とか、ああいう見てると、原作とまったく同じ素材でありながらまったく別の、しかし違和感が無い「ブギーポップは笑わない」を作れたんじゃないかと思うのだけれど。
 そもそも、元々がたった一つの事件を様々な視点(物語を動かした者、見ていた者、居合わせた者…etc…)から物語るのが「ブギーポップ」の面白さなわけで(ついでに言うと、それは一つの作品を様々な人間の視点から見る同人二次創作群やレビューを見る面白さとも同様だし、歴史等を調べるに当たって、視点の違う様々な叙述から一面的でない立体的な事実を組み立てていく面白さとも重なる)、既に原作者が色々と提示した視点以外の、原作者が気付かなかった新たな視点を見せてくれるのが他メディアでのブギーポップに原作者や読者が期待していたものだろうに、どうしてアニメ版はあの事件に対して新たな風景は提示しても、新たな視点を持ってはこなかったんだろうか。
 アニメ版で描くべきはとってつけた新たな風景ではなく、既存の風景への別の視点、そこから見える、今までと同じだけどなんかちょっとちがう、見慣れた風景の別の面であったと思うんだけどな。村井さだゆきってそれを書くのが得意な人であるわけだし。


5月11日 キセキ

 妖精探偵社は2つの世界の融合という時間は動かさずに、その状況におかれたキャラクター達がどう動かなくてはならなかったのかをつづった物語です。
米村孝一郎

 麻枝さんは状況そのものを動かすのが恐らく好きで、久弥さんは、そういうなんらかの状況下でのキャラクター達を動かすのが得意っぽい(麻枝さんは戦略級で、久弥さんは戦術級?)。
 そこら辺の得手不得手の違いが、ゲームとしての「ONE」と「Kanon」の印象の違いの理由の一つかもしれない。

 「ゲーム」に多くの人間が求める「物語」とは、プレイヤーが動かすための物語であるだけに、状況を動かす人が動いた軌跡であるようだ。
 しかし、近年の恋愛ゲーム等に代表される人間関係や人間の心情の動きというモノを描いた物語は、元来、事象的には何かが変わるわけでも何かを生み出すものでもないので、そこに重点を置けば置くほど、動きや軌跡は描けなくなる。
 恋愛に焦点を置き、そこに終始する少女漫画などは、男女がくっつく(別れる)という軌跡しか存在しない。
 故に、多くの人、特に男子は平和な世界での恋愛という軌跡を、単純で物足りない物語と拒否反応を示す。

 そんなわけで、男性向けに描かれた恋愛物語というのは、恋愛以外の軌跡もそこに描かれてきた。
 最終的には男女がくっつくだけの話に、宿命からの解放やら世界の危機やらを救うという別の軌跡が追加されるという形で(「LUNAR2」とか「痕」とか上手いよね)。
 しかし近年、「ときメモ」や「ToHeart」という恋愛以外の軌跡が排除された物語を擁する恋愛ゲームが脚光を浴びヒットすることで、ゲームに求められる物語のカタチに変化が起きている。
 それは、ゲームユーザーが、例えば恋愛という事象的には単純な軌跡に内包された、複雑な心の動きというミクロな軌跡の描写に面白さを見出したということかもしれないし、ゲームに求められていたのは「事象を動かす」という操作へのレスポンスであって、その結果現われる軌跡ではないという事なのかもしれない。

 …とまぁ、「Kanon」久弥シナリオにおいてやっぱりその存在に違和感が残る恋愛以外の軌跡の意味合いについてつれづれと考えてみたり。
 そういえば、「きまぐれオレンジロード」の超能力って最終的には意味無かったよなぁ…とか。
 麻枝シナリオはハナから恋愛を描いていないから、奇蹟という軌跡がしっくりくるんだよなぁ…とか。


5月12日 まほーじんぐるぐる

 、気にはしましたがが、気を悪くはしてませんので、特に気は使わずに結構です。
#…「気は」ばっかりで変な文章だな。
  当たり前のことですけれど、対象に対して素直な感想や意見を発表することは、その限りにおいては悪口ではないし、直接であろうと間接であろうと、批判は誹謗ではありません。
 いわれのない誹謗中傷でなければ、耳が痛い話であっても(あればこそ)、いちいち腹を立てる必要はないと考えます。怒る理由も無いですし。
 仮に他人に馬鹿って言われたのなら、なんで馬鹿といわれたのかを考え、改めた方がいいと思ったならそういう風に直していけばいいのだし、改める必要が無いと思ったなら、気にする必要もないわけで。

 スレ違い云々については、第一掲示板で「澪」で検索するとそれっぽいのが出てきますね。別に対したことは書いてないですが。
 雑記でも長森関係なんかでちょこちょこ勘違い、スレ違いについては書いてますが、ようするに、痛みや気持ちを「分かってあげる」事と「思いやる」ことは別で、分かってもらえなくても思いやってもらえたなら、その行動がどんなに小さく意味の無い、或いは逆に自分に不幸をもたらしたとしても、前に進むきっかけにはなり得るし、きっかけを与えてくれた人は、想ってくれた人は愛しい…というのが「ONE」なんじゃないかと考えたりもしています。

 「結果じゃなくて、過程が大事なんだと思う。結果は他人に見せる為のもので…過程は自分が確認する為のものだから」

 というわけで(これはONEじゃなくて「終末」だけど)、長森が浩平に与えた永遠の盟約、浩平がした、みさき先輩を外の世界に連れ出したこと、澪や七瀬にあての無い約束を与えたこと、茜の幼なじみへの希望を打ち砕いたこと、繭を学校に連れ出したこと等は、作中、それぞれのエンドでは結果的に正しかったことになっているけれど、絶対的に正しいことでは無い。
 けれども、そうだったとしても、彼や彼女が想う相手にしたことは、想っての行動であったという、それだけで相手を救っているんじゃないか。
 相手の全てを本当に理解は出来ないように何がその人にとって絶対的に正しいことなのかは分からない。
 けれど、ときにはだから相手を思ってしたことが相手を傷付けてしまうかもしれないけれど、間違うかもしれないけれど、でも、本当に思われてされたなら、間違いすら愛しいと思う事が出来るんじゃないか。
 だから相手のことを本当に思うなら、間違いで傷つけることを怖がって何もしないことよりも、触れる勇気を出そうね、みたいな。
 …あの作品が凄いのは、他のそういった前向きな作品が、「停滞=悪」「前進=善」みたいにかいているのとまったく逆の方法でこれを書いていることですね。  哀しくて泣いている人と一緒になって泣くだけのこと(永遠の世界での二人とか)、つまりは停滞がある種の救いであるという真実を描写し、「永遠はあるよ」という優しい嘘や、「お前は振られたんだ」という終末の宣告で前に進むこと、相手に触れることは相手を傷付けてしまう痛みだと描写していながら、「大人になるっていうのはそういう事なんだよ」と、浩平を前に進ませているあたり。

 話を最初のところに戻して、Kanonにおける勘違いスレ違いですが、実は一番分かりやすい例は、久弥シナリオよりも麻枝シナリオの佐祐理さんと舞の関係なんじゃないかなー、とかふと思ったり。


5月13日 まほーじんぐるぐる その2

 引き続いて余所への反応。
 名雪が7年前の全てを知っているとは思えないというのは私も同感。
 というか、秋子さんでもあゆでもいいけど、Kanonという作品に置いては、全てを知っているキャラクターがいてはならないのではないかと思います。
 ここなんかでちょこっと書いてますが、Kanonというのは恐らくそれぞれの持っている物語(情報)が重ならない、リンクしないことを前提として作られた作品だと思うのですよね。
 リンクさせないことによって日常の偶然性(言ってしまえば奇蹟か?)を強調しているのではないかと。

 ところで、暗号というと、Kanonのシナリオそのものがある種の暗号になっていますよね。

9年間暮らしてきた街並み。
今、こうしてその中に身を置くと、いろいろな思いが沸き上がってくる。
この街で、どれだけオレが見てもなく触れてもないものが多いことか。
あの道だって歩いたことがない。
あの店だって入ったことがない。
どこからだって、物語は始まりそうだ。
人との会話から始まって、約束を交わして、再会して、お互いを知り、他人でなくなり、互いが互いを干渉し、生活が少しづつ変わってゆく…
それは幾度となく繰り返されてきた日常のはずだ。
(ONE瑞佳シナリオより)

 これが「ONE〜輝く季節へ〜」で、

そんな、本当に何気ない日常の風景も、いつかは思い出の中に埋もれていく。
数ヶ月後。
数年後。
そして、数十年後…。
ふとしたきっかけで蘇る、その時を待ち続けながら…。
(Kanonノーマルエンドより)

 これが「Kanon」“思い出に還る”物語。
 「Kanon」は「ONE〜輝く季節へ〜」を作った人間はここにいると伝える為の作品、つまりはONEを思い出させる為の作品でもあるわけですが、ONEで語られたような物語をただもう一度やるんじゃなくて、そういう「人との会話から始まって、約束を交わして、再会して、お互いを知り、他人でなくなり、互いが互いを干渉し、生活が少しづつ変わっていった過去」を作中で主人公が「思い出す」という構造にしてしまったあたりは非常に面白いと思います。
#まぁ、栞シナリオはそのまんまの再話ですが。
 日常に内包される語られない物語。
 それを描いた「ONE〜輝く季節へ〜」、それを思い出す「Kanon」というか。
 そして結ばれたヒロインとの関係、物語に対し、そこにあった事件の真相そのものの意味がシナリオ上まるで重視されない事、祐一が記憶を取り戻すことがゲーム的にも物語的にも目的になっていないあたり(事実、どのシナリオでも最後まで全てを完全に思い出すことはないし)、Kanonにとって最重要とされたのは日常に内包されている物語や事件を語る事では無く、そういった物で成り立っている日常そのものを語ることなのでしょうね。


5月14日 まほーじんぐるぐる その3

 さらに続きっぽく。
 名雪はぼーっとしてるけど実は何でも知ってます、という女神幻想みたいな考え方というのは、見方を変えれば一見イノセントなヒロインが、実はそういう状況をきちんと認識してたけど知らないふりをしていたというパターンに乗っ取った考え方とも言えるわけで、これを認めたくないというのは、逆に白さ萌え的な思考も働いているのかもしれないな、等と自己分析してみたりもする(ややこしい話だ)。
 で、作中での描写から改めて考えてみることに。
 …って、深く考えるまでもなく、名雪ってば幻想を持つほどに白くもなければ強くも無いじゃん(※)。
 やっぱ、知っていて平気で祐一たちに接しているというのは無いような。祐一にはまだしも、知っていてあゆにああいう笑顔を向けるのは無理だろう。

(※)白ければ「嘘吐き」なんてふてくされた態度はとらんだろうし、秋子さんの件だけでなく、香里との絡みなどを考えてみても神経が細やかな方だと思われる。だからこそ名雪のねぼすけを祐一の過去の仕打ちをできるだけ考えないようにする為のある種の(「SoWhat?」の阿梨さんのそれと似た)逃避なんじゃないかという深読みがそれなりに受け入れられたのだろうし(このサイトには置いてないです。某掲示板に書き込んだネタ)。

 無理して笑顔を作り、その反動としてぼーっとしたり眠りこけていたりするというのもアリといえばアリなのだけれど、それだと栞シナリオにおける香里への態度とか、あゆシナリオにおける祐一への態度なんかが上手く繋がらないような。個人的には、だけれども。

ついでだから、白さ萌え、女神幻想というのをもうちょっと考えてみることに。
 ベルダンディー、マルチ、綾波レイといった辺りがそういう白さ萌え、女神幻想の最右翼だろうか。
 あらゆる面で完璧なベルダンディー、全てを好意的に解釈する(ようにプログラムされている)マルチ、他を排除する故に保たれる純粋さの綾波。
 三者三様に白いわけだが、その白さはちょっとずつ違う。

 第一のベルダンディーは侵食系の白さ。
 相手の黒い部分ですら理解し、その上で全てを包み込んで白くしてしまう。
 全てを受け入れ、癒す、まさしく女神。

 第二のマルチは黒さを持たない(知らない)白さ。
 白痴の純粋さのような物で、自分が白井ということすら気付かない。
 黒いものと接触しても、それが黒い物だとは気付かず、永遠に染まることなく白いままで居続けるので、黒は逆に染められるか逃げるしかない。

 第三の綾波は他と交わらないことで保たれる白さ。
 潔癖性の病的な白さに近い。
 マルチの白さとも近いが、決定的に違うのは、相手が黒であろうと白であろうと決して交わるような接触をしないというところ。
 無意識のATフィールドを張り巡らし、自分への他の接触、侵入を許さず影響を受けない。というか、他と接触することで相互に影響を受けるという概念自体を持たない。

 …加奈は望まずに綾波的状況下におかれ白さを身につけてしまい、それを好ましく思っていないのだがその白さに対してマルチやベルダンディーの持つ他を白く染める力を期待されてしまう
 で、天然の白さを持つフルーツバスケットの透君は自分の白さに無自覚なまま、周囲のそういう期待に応えようと頑張ってしまう…と。

 周囲の期待に応え、白くある故に周囲から愛され必要とされ守られている透君の姿と、伊藤勇太の期待に戸惑い、白くあることを自ら否定し、それを受け入れてくれる兄と結ばれる加奈では、普通に考えれば加奈の方が不健全なのかもしれないが、私には透君の方が不自然で哀れなものに、加奈の方が健全で幸せに見えてしまう。

 完全な白さは、完全であるが故に人間としては不健全なものだと思う。
 誰かを守るために誰かを傷つけるのは当然であり、生きていく為には他の命を奪わなくてはならない。
 その罪を受け入れられないなら、生きてはいけない。
 その罪に気付かないことで、目を逸らすことで白くい続けるのは、逃げていることに他ならない。
 たまたまそういう黒さに気付かないこと、触れないことで白くい続けてしまった少女から黒さを遠ざけたり、その白さで自分の黒さから目を背けようというのは、ひどく病的で卑怯な事のような気がする。
 かといって、罪に塗れていることを恥と感じず、自己正当化してしまうのもどうかと思うのだけれど。

結局、生きていくということは選ぶことであり、優先順位をつけることであり、傷つける相手と傷つけたくない相手を区別するということだ。
 そして傷つけたくない相手を傷つけない為に守るという事は、自分が相手の黒さを引き受け、相手を白く保つことへと繋がる。
 それは結果として黒い自分が白い相手に触れることで傷つけるという矛盾を生み、それが黒による白への隔離や、白への自分への癒しを求める幻想を生むこととなる。

 …なるほど、これが白さ萌えの正体か。<勝手に決めんな

 本当に好き合う同士なら、お互いの黒さも含めて好きになる物だから、そこまで自分や相手の黒さに潔癖性になる事も無いのにね。



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