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《雑記帳5月》
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5月20日 レビュアーとして…というかなんというか

 作家にとって、やはりよい文芸評論というのは作家に、本人も気付かなかったような無意識の意図を喚起させ、新たなテーマを見つけて書く気を起こさせるようなものでなくてはならない。衰退だ末期だ批評する気を失わせるものばかりだと叫んでいるだけでは、枯れかけている木から新芽の出ている枝まで払うようなもので、衰退を促進させるばかりである。
筒井康隆

作家さんと批評家の理想的な関係って、takitaさんも似たようなことをおっしゃられてたけど、作者が発表した作品に批評家が一方的に批評を書き、それに対して作家は作品で反応、さらに批評家がまた一方的に批評…というような、直接の会話を挟まないコミュニケーションなんじゃないかと思ったりする。
 なんでそう思うかというと説明しづらいのだけれど、山本定吉さんが一人で活動されている理由とちょっと似ているかもしれない(氏のプロフィール参照)。
 癒着することで批評が提灯記事や作者への感情論となって価値を喪ったり、内輪褒めで作家や作品が堕落する危険性は避けるべきだし、結局、作品を測るということは作者の人柄や対人コミュニケーション能力ではなく製作能力を測る事なわけで、飽くまで作者、批評家という立場にたって行動するならば直接の対話は必要無いと思うのだ。
 作品を作る人間は、批評には言い訳ではなく作品で答えるべきだと思うし。

自分がここでレビューや感想を書き綴っているのにはそういう、作家に向けての一方的なコミュニケーションという面もある。
 今は作家のWebページがあったりし、そこの電子掲示板で直接作家と作品に付いての対話が出来たりする場合もあって、自分の声を届けるというだけならそっちの方が簡単だ。
 けれども、好きな作品・作家であればこそ、作品についての直接の会話はしたくないので、そういう所に書き込みたいという気分にはなれない。
 飽くまで一方的に感想・批評をそこに書く、という手段もあるのだが、作家とファン、或いはファン同士のコミュニケーションボードと化した掲示板でその行為をするには、どうしても二の足を踏んでしまう。
 仮に書き込んだとしても、あっという間に他の発言に流され消えてしまいそうであるし。

ここでやっていることは、それが作家に届くかどうかさだかではない。
 けれど、そこがいいんじゃないかと思う。
 自分は小心者なので深い関係でもない(しかも好きな)作家を前にしていきなり歯に衣着せぬ感想など言えそうもないけれど、こういうやり方なら一方的に書きたいことを書きたいだけ書けて楽でいい。
 作品が気に入ってレビューをするのであって、その向こうの作者と友達になったり喧嘩をしたりするためにレビューをするわけではないんだしねね(^^;;
 更にそうやって発表されたレビューだの考察だのは、検索すれば直ぐに出てくるし、出てこなくてもよく書けていれば評判を呼んでいつか作者の目に止まるだろうし、大したものでなければ作家の目に届かないであろうから、作者にも無駄な時間を使わせなくて済む。ファンレターやコミュニケーションボードと違って、返事を書く事などを気にしないで気楽に読めるだろうから、作品への反応を気にする作者にとっても楽でいいんじゃないかと思うのだ。

そんなわけで。
 私が書いているレビューやなんやかやに関してなんか思うような事がある方は、私がどう思うかとか、そういう事はあまり気にしないで言いたいことを好き勝手に一方的に言って下さって結構です。その方が自分は気が楽だし。
 自分もそうしてるし。
 勿論、自分がそれでいいいからといって、それが嫌だという相手に対してそれをするほどにアレではありませんので、気をつけていますが、もし一方的に自分の作品や何やかやについて書かれるのが我慢ならないという方にそれをやってしまっている場合は、遠慮無く直接注意して下さいね。
 別に私に見えないところでなんやかんや言ってても私は全然構いませんが、一方的に書かれるのが嫌な方が相手には一方的に書くというのは対外的に非常にマズいでしょうし。


5月21日 ゲーム色々 

 水無月情報ページさんの掲示板とかなんとかから色々と飛ぶ。
 PS3の電撃発表(笑)だとか、メタルギアソリッド2の驚異のグラフィックが見られるムービーとか(あの美麗さで「!」とか「?」がキャラクターの頭上に出るのが素敵すぎる)、イースエターナル2の卑怯なくらいに購買意欲を煽るムービーとか、セガ入交社長の退任とか。

あそこの掲示板は色んな情報や反応が見られて楽しい。時折、妙な比較をした誹謗中傷で他を貶して自分の好きな物、或いは自分自身を持ち上げるしか出来ない不愉快極まりない信者やアンチユーザー(アンチSEGAもアンチ任天堂もアンチソニーもアンチギャルゲーもアンチコナミもアンチスクウェアもアンチマイクロソフトも皆ウザイです)が出てくるのを除けば、ライトな雑談からディープな議論まで楽しめて、ゲーム好きには非常に良い掲示板だと思う。

掲示板といえば、ここだったかどこだったか忘れたけど、DC版Kanonの話題でエロゲー、ギャルゲーをプレイしない人達とプレイする人達の対話というのが色んな意味で面白かった。

「あの絵キモイ。目、でかすぎ」
「でも、『なかよし』とか『ちゃお』とか、小中学生向け少女漫画の絵なんてみんなあんなもん」
「そういう小中学生向けの絵でエロゲーってのがキモイんだって!」

 『CCさくら』の単行本の横にさくらのエロ同人アンソロジーが並んでいる本屋や必ずしも18禁ゲーム=エロゲーではない現状の18禁ゲーム業界の意味を改めて考えさせられたり。

あと、ゲームの話題ついで。
 GameDeep的ななんやかやが好きな方は fj.rec.games.video.home の「ゲームの面白さと価値」は要チェック。
 ゲームとゲイムの違いだの、ノベルゲームにおいては「選択肢もノベルの一部」だの「選択肢自体の価値っていうのがあって、選択肢はただの分岐装置ではない」だの、楽しげな議論がなされています。もう終わっちゃってるけど。
 関連して、その前の「リーフの盗作」ちう物騒なタイトルのスレッドもゲームの評論ということについてなんやかやが議論されていて面白いかも。
 あと、リーフといえば2chのLeaf・Key版、「ホワイトアルバムはどこが失敗だったのだろうか」スレッドがちょっと面白かった。
 あれほどプレイヤーの見解の方向性(何が良くて何が駄目か)が一致しているゲームも珍しい。
 ああいう題目の議論で反論が出ないから論争にならないというのは凄いことかも。
 あ、ぐっちーさん、WA終わられたんでしたら源内さんとこの各種考察なんか読んでみると面白いと思いますよ〜。


5月23日 好き。だから好き

 しのぶさんがベタ惚れというサイトを見に行く。
 …私も一目惚れ。
 こういうのが読みたかった&書きたかったんですよ〜!!
 はにゃ〜ん。

 単体のシナリオではなく、Kanon全体を通して考える場合は、ここ読んだ後にWild Wisdom Fightersさんのバウンティ・ソード批評を読めば取り合えず完璧な材料が揃うんじゃないかと思います。
 「Kanon」と「バウンティ・ソード」という全く無関係の作品がなんで絡むねんと不思議に思われる方も多いでしょうが、まぁ、読んでみて下さい。
 書かれてある事が、Kanonに置き換えて考えてみてもかなりの部分で合致することに驚くはずです。
 最近バウンティソードをプレイしたjesさんに薦めたついでに読み返した時、いきなりそういう(Kanonにも通じる)文章であることに気付いたんですけどね。特に上記サイトKanonレビューや私の論考「Kanon -日常の視点-」に共感出来た方にはかなり面白いんじゃないかと思います。
 バウンティ・ソードが知らない人でも読めるように配慮されていますし、ゲーム評論としては質・量・完成度ともにそうそう無いレベルの作品ですし。おススメ。

 そういえば私、WWFさんって、ここからはリンクしててもリンクページからはリンクしてなかったんだな(汗
 バウンティ・ソード以外の批評もとてつもなく面白いので、この機会に読んだこと無かった方はここの各種コンテンツを見てまわることをおススメします。
 とりあえずは主要なコンテンツのリスト空談寸評のページから、好きな作品(多分、どれかは引っ掛かるんじゃないかと)の評論を探して読んでみると宜しいかと。

 …ところで、私はWWFさんも押井守も好きだけれど、こちらおたくを憐れむ歌に収録されている「好き好き押井守」も大好きなんですよね。
 面白い文章の前には、そこに書かれていることが自分の嗜好や主義主張と合致しているかどうかなど、どうでもいいということを再確認する今日このごろ(いや、好き好き押井守にはかなりの部分で共感してもいるのだけれど)。


5月24日 ピュア・セレクト

 マヨネーズ。
 …意味不明なボケはさて置き、いつもの雑記です。
 今回は最近やったニトロプラスの18禁ゲーム「ファントム」の選択肢のお話。

ノベルゲーム作品には、読み返した時に前回とは違う新たな展開を目にすることが出来るという特色がある。
 しかし、その特色故に、ファーストプレイで最高に面白い(と感じられる)ルートを通ってしまった場合、読み返すことでそのルートへ続く道を自ら閉じ、それ以下の話を読むというのは…、どうにも楽しくない作業なのではないかと最近とみに感じるようになった。
 きっかけは「Kanon」真琴シナリオをクリアした後で真琴以外のシナリオを攻略した時の罪悪感であり、決定打は「ファントム」の2ndプレイに踏み切れないもやもやとした気分である。

これらは自分が選んだヒロインを捨てて別のヒロインを攻略するという事への抵抗という、キャラ萌え、キャラへの信仰心の問題に過ぎないと言ってしまえばそれまでだが、一歩踏み込んで、そのキャラにそこまで感情移入する理由とは一体なんなのか、というのを考えてみると、それは結局、その娘を「自分で選んだから」という事に他ならない事に気付く。
 Kanonやファントムにおいて、そのヒロインを選ばないという事はそのヒロインの死という、洒落にならない事態を想起させる。特にファントムは実際に一方を選ぶ為に他方を殺さなければならない場合だってあるのだ。
 このヒロイン選択のクリティカルさというのがヒロインへの強い感情移入を生んでいる。
 選択肢の一つ一つが人の生死に関わり、実際にゲームを進める為に誰かを殺すことを選び、選べずにいれば死ぬ事を(ゲームオーバーになることで)実感してきた中、他方を犠牲にすることもすべて含めて自分で選んだ相手を、どうして簡単に捨てられるだろうか?

ファントムというゲームは、1〜3章まで別れている(ように見える)が、終章である第三章に至るまでにヒロインが確定することでシナリオが変化するということはない(クロウディア・ルートは別だが)。
 多くの18禁ゲームではプレイヤーが追いかけるヒロインを選び、そのルートに入ることでヒロインの様々な情報や内面を知っていくこととなるが、ファントムでは一章、二章で主人公は別々の少女と寝食を共にし、選ぶ選ばないに関係なくヒロインそれぞれの考えや生き方、生き様を知る。
 その上で、第三章においてどちらかを選ぶのだ。…プレイヤーが。

一方を選ぶことは他方を選ばないことであるという、その当たり前のことを「自分と他者の命」を始めとしたクリティカルな選択の数々で知ってきた上で、深く知っている少女達をエゴで選別・区別・差別するのである。
 そして自分はある少女を選び、結果、選ばなかった少女を死なせた(殺した)。
 その死は哀しく、そして悔しかった。
 だが、ゲームをクリアし、全てに決着をつけ、選んだ少女の笑顔を見られた時…。私は後悔してはいなかった。
 素晴らしい終わらせ方であったというのもそうだが、それが何より自分が望み、選んだ結末であったから。
 もちろん、それはゲームにプログラムされた結末であり、必然である。
 だが、私は悩んだ末に他の結末の可能性を否定し、捨て、この結末を望み、そうなるようにとの期待を込めてあの選択肢を選んだのだ。
 用意された結末であろうと、選んだのは自分である。
 だから後悔はなかった。

if…、もしも違う選択をしていたらどうなっていたのかという、それに全く興味が無いといえば嘘になる。
 けれども、彼女を選ぶということは、それら別の可能性を見ることを選ばなかったという事なのだ。
 それを覆してしまうのは、その選択を間違いだったと自分で認めるようでなんだか抵抗がある。
 ノベルゲームが物語を複数のシナリオから多層的に語る、新しい小説のカタチだとしたら、こういう、他のシナリオをプレイさせることを躊躇させる作品というのは失敗作かもしれない。
 だが、意思決定、選択を楽しむ「ゲーム」であると考えれば、明らかにそれは正しい。

先日の雑記であげたNGで、「ノベルゲームはコンプリートされることを前提に作られている」というような発言があった。
 これは小説表現の一形態として作られたノベルゲームにおいては正しいと思うが(実際、ノベルゲームに限らず、結末が数種類載っているような小説は存在するし)、ゲームとして作られたノベルゲームには当てはまらないのではないだろうか。
 少なくとも、ファントムはコンプリートすることで物語の様々な様相を知ることで謎が解けたり、全体としてのテーマや何やかやが深まる作品ではなく、プレイヤーが選んだことへのレスポンス、結末を用意したという、100人がやったら100人それぞれが(ルールの中に存在する限られた行動の中から)選んだ行動にルールに乗っ取って妥当なレスポンスを返すようにしているというゲームのシステム的な要素を強く感じ、必ずしもコンプリートする必要性はないように感じられた(勿論、一度勝った将棋をある時点からやり直し最善手を模索するように、コンプリートする意義も感じるが)。

正直、私は前述の発言の方と同様、ノベルゲームとはコンプリートすることが前提で、選択への意志の介在や緊張感が薄いこと(ONEはそれさえ演出に利用していましたね)は仕方がないことだと思い込んでいたので、ファントムに感じた選択への緊張感には非常に驚いた。
 選択対象の深い部分を選択前にノベルでえんえんと読ませ、双方の魅力・選ぶリスクを良く知らせた上でクリティカルな二者択一をさせる。
 ゲーム、意思決定に必要な情報(コモンノリッジ)をノベルというカタチで提示し、そのゲームの結果もまたノベルで表現していく。
 これって、小説(映画)かゲームかに針を振り切りがちなノベルゲームやヒロイン選択の要素がある美少女ゲームが、その両方の要素を両立させる手法として一つの解答になり得るんじゃないだろうか。
#いや、これこそがマルチシナリオというシステムの開発理念か?

ノベルゲームの普及によって繰り返しプレイによるコンプリートが前提とされるマルチシナリオ、マルチエンディングが広まり、何時の間にか選択肢は読むシナリオ・萌えるヒロインを選択するための装置となった。
 そんな中でゲームプレイヤーの中でコンプリートの為に意志とは関係無く選択肢を選び、繰り返しプレイする事が日常化し、それを物語演出として用いた「ONE〜輝く季節へ〜」のような作品が現れ、「Kanon」のように、プレイヤーが忘れかけていた選択という行為の意味を改めてつきつけ物語演出と利用するある種革新的な作品が現れているが、「ファントム」が示した方向性というのもまた、ゲームという表現の向かう道の中、結構大きな意味を持つんじゃないかと思う(Kanonやファントムでの演出としての選択って、WAでリーフがやり損ねた事なんじゃないかって気もするが)。

#…うーん、なんとなくだけど、システム的に育成とか調教物ものとでは既に「ファントム」的な物語の中での選択の緊張感って、ポピュラーになってるんじゃないかという気もするなー。そこら辺もやんなきゃ駄目かな…



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