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《雑記帳 2月》
【12-1】 【2-1】 【2-2】

2月8日 久遠な痕


 AIR雑記に収録。


2月13日 ゲーム…(オチ無し)

 ゲーム攻略の動機が内から来るか外から来るか。
 ゲームプレイ、或いは攻略の動機っていうのは、根本的にはそれがプレイヤーにとって「面白いから」発生する。
 ところがプレイヤー個々人で何を面白いと思うかというのが異なっていて、それを大きく二つに分けたのがゲーム「内的」な面白さと「外的」な面白さというわけだ。
 ギャルゲー、例えば「ときメモ」なんかで考えると分かりやすいけれど、あれのプレイ攻略の目的っていうのはゲーム内的に見ると「気に入った女の子と仲良くなる面白さ」であって、外的なそれは「キャラを落とすためのゲーム作業の面白さ」というのになる(まぁ、外的なプレイ理由には「シナリオを全部見ないと勿体無い(ある種内的な理由だな)」とか、「取り敢えず落とせる女は全部落とす主義」とか「ヲタな友達と会話するのにやっとかなきゃいけない」とか面白さに限らず色々あるだろうけれど)。
 この二種類の攻略動機は一見すると乖離しているので、内的な理由でゲームを行なうならば興味の持てなかった女の子をわざわざ攻略する必要はなく、外的な理由でゲームを行なうなら攻略対象の女の子の個性なんてどうでもいいように思える。
 よって時に思想対立も起こったりする。
 内的な理由でゲームをプレイするプレイヤーにとっては外的なプレイヤーの為に用意された作業要素は時に煩雑で邪魔に映るし、外的なプレイヤーにとっては逆に長ったらしい演出など内的なプレイ要素が邪魔に映ってしまうのだ。
 結果としてか、内的志向のギャルゲーなんかは外的要素をどんどん排除して電脳紙芝居みたいになっていき、外的志向の弾幕系アーケードSTGなんかは内的志向を排除して、ある意味で囲碁や将棋の境地に達しようとしている。

 ここで思うのは、こうした分化の結果プロレスが「WWF」と「バーリ・トゥード」に枝別れしていったということであり、分化の結果TRPGが絶滅寸前に陥っているということであり、そしてよくよく考えてみると、ゲームの場合の内外対立というのは、ゲーム作業部分がつまらないとか面倒とか、女の子が可愛くないとかビジュアルシーン長すぎるとかいう、それぞれの要素の質が低い場合に発生する物であって、実は思想はそんなに関係無いかもしれないという事であり、内外両方を満たす面白さを持ったゲームがやっぱ一番強いんじゃねえかなぁ、ということなのであった。



2月14日 消える飛行機雲追いかけて


 AIR雑記に収録。



2月15日 追いかけて追いかけて

 早起きしたついでに暗黒Kanonを覗きに行ってみた(準巡回ルートなんです)。
 掲示板を見ると、何やらkagamiさんが騒いでおられる。リンクしてあったテキストを別ウインドウに開きながらログを読み進めていくと、どうもニュース23で加奈が取り上げられるという衝撃の事件をも吹き飛ばすくらい凄いことがあったらしい。
 んで、その凄いこととやらのアドレスへ行ってみた。
 2chのLeaf・Key板の待避掲示板だった。
 …読んでみたが、何がどうなんだか良くわからなかったので2ch葉鍵板に行ってみた。
 kagamiさんが騒いでおられた理由とリンクされていたテキストの意味が分った。
 つーと、くるくる少女さんとこもひょっとして…
 予想に反して動きはなかったが(つーか、朝なんから当り前)、kagamiさんの書き込みはあったので、ある意味予想通りというべきかなんというべきか。

 ともあれ、本件にて発覚したログは非常に面白い物だった。
 内容自体は、ある意味ではとても痛快なのだけれどある意味では非常に身につまされて痛くてにんともはや、な、自分の過去を振り返ってみても、トダイを見ても、格闘技興行団体とか種々のプロレス団体の噂を考えてみても中小企業には良くある光景、なのだけれど、文章のレベルが高く、近況報告にしても愚痴にしても芸になっているので読んでいて非常に面白いのである(そう思うのは不謹慎なのかもしれないけれど)。
#なんとなく、こちらを思い出したり。

 とりあえず本事件、オタク系の2ch内事件としては類希に面白い物であったので(なかよしでのCCさくら最終回時のさくら板程ではないが)、右に倣って、血のバレンタイン事件(マサ斎藤引退興行が確かそんな名前だったような)…ではなく、葉鍵板2.14事件と呼称することにしやう。
 …しかしこうなると、旅団の動きが気になるところ。いやほら、目が充血して緋色の奴が現れるかもしれんし<弱火


2月16日 美汐萌ゆ

 2.14事件をきっかけに久々に2ch葉鍵板を見たわけなのだけれど、そこにあったKanon天野美汐スレッドに立ち並ぶ原初のSSのカタチ達のあまりにも素晴らしい出来ぶりにもんどりうって転がってみたりしている今日このごろ。
 みしおたん、みっしー、マンセー。
 バレンタインネタ、良いのぅ(#^.^#)
 ギコハニャーン
 …というわけで、勢い込んで周囲に布教してまわってみたところ、某T氏も絶賛ですよ!

> ・・・・・・・・・悟りを開きました。
> 美汐様萌え

 …ていうか、なんか悟っておられるし。
 このスレはひょっとして「悟りの書」?
 賢者になりたい方は試してみると良いかもしれません。



2月18日 つらつらと思考連鎖

 deepの原稿としてゲームとプレイヤーの距離とかなんとかについてつらつらと考える。
 しかし、これ↑の続きに書く予定の物語を弄ぶということについてが、どうにも思考がぐるぐるしてしまって上手く書けない。
 ちなみにこんな↓感じ。

 僕等と物語の間にある距離。通常、僕等は物語世界の観測者でしかないのだけれど…
 観測者と世界の関わりっていうと錬金術師ゲンドウを思い出す。
 その最終話の最終章、13-7。カヲル君からの手紙とか。
 あれってホログラフィー理論を用いての一種の並行世界の解釈っぽくもあるので、如月さんにちょっと意見を聞いてみたいかも。
 その前のカードゲーム云々とかも併せて、錬金術師ゲンドウをベースにGPMを考えてみるって言うのも、なんだか面白いかも。時間が出来たら読み返してみようかな。とてつもなく長いけど。
 あと、しのぶさんのこちらのAIRな日記を読んでいても、この手紙の締めをなんとなく連想。AIRって、マクロな部分を語る事は=ミクロな部分、人間、登場人物一人一人を語る事に直結すると思うから…うーん、まだ上手く言えないけれど、しのぶさんのAIR日記や第二掲示板での遊さんの考察に刺激されてAIRについては色々と溢れてきてる感じ。
 この前のAIR=FE説やそれへのWhiteさんへの返事についても色々と溢れてるし、AIRについてはもっとちゃんと書きたいな、そのうち
 で、AIR>GPM>彩院忍「電脳天使」>その4巻のオチ(あれって、ようするにこういうことだよね)とオタク思考は連鎖。更に「あ、これも一種のホログラフィー?」とか錬金術師ゲンドウに戻って、結局、物語世界を観測するゲームプレイヤーってのに戻る。ぐるぐる。

○さらにぐるぐる
 物語って言うと、米村孝一郎「妖精探偵社」のこの会話シーン。

「時間? 竜の宝が」
「正確には物語なんだ それは時間によって作られるから…
 時間を持たない妖精には物語はない…
 だから自分がどう生きていくかに関心がない
 あたしはそうなりたくなかったから竜に会いに行った」

 その後書き。

 雲の写真をとり始めてからだいぶたちます。初めは資料として、また「色」を抽出する素材として。
 光と風に翻弄される形態と色彩を追って意識を空のみに集中すると、何故か空間を把握する感覚が鋭くなってきます。後ろの松林のざわめきや砂丘の圧迫感、左右に続く砂浜の開放感、海から立ち上がる空の存在感。
『世界に相対する自分の位置、自分の体の延長線上にあるような空間。その二つを持って自己の確立をはかる』何て考えも浮かんできます。ある旧い民族の中に同じような思考が信仰として生きていることを知って、驚いたこともあります。
 そう考える前はもうちょっと違う見方をしていました。望み通りの絵がとれるか分からないのに雲を追い続ける欲求の強さ、その大きさはどこからくるのか? 良い写真をとる行為の向こうに違う何かを見ているのでしょう。そういった形にならない『何か』を抱えたもどかしさ。
 『妖精探偵社』はそんな事を頭に置いて設定を作りました。最初は(中略)ゲーム性の強いアクションをと思いましたが、『妖精が存在すると思える心理は何か?』を考えて今の形にしました。(後略)


 『世界に相対する自分の位置』というのは、「妖精探偵社」では最終的に「妖精と『物語』の関わり」なんていうので描かれていた(雑誌掲載時はその最終話が第一話だったりもしたのだけれど)。
 そこら辺を考えると、こちらの11/19にあるフレーズ『人間に唯一可能な世界認識の仕方=「物語」』っていうのも頭に浮かぶ。

 様々な米村作品に出てくるフレーズ。
「手の中に風の道が見える」
 自分の「動き」によって世界を感じるということ。

 ミッシング・ゲイト二巻。
「『動く』ことで世界をクリエイトしていく…
 踊ろう ワトソン
 踊ろう セブンアローズ」
 自分の動きでクリエイトされていく世界。

 その中で「動く」ことによって感じられる世界。
 自分の行動でクリエイトされていく物語で世界の認識するということ。
 物語を生む行動。世界を変質させる行動。そしてそれを感じる「動く」という行為。
 「動く」という行為が創作であり、踊るという動き、MCに跨り風の中を走るという動きがそうであるならば。
 物語の中を動き変質させそれを感じる「ゲーム」という行為もまた、世界のクリエイトなのかもしれない。

>それは夢でしかなく、これは物語でしかないかもしれない。

 そうして、こちら米村作品へのレビューを思い出して、それに似て否なるAIRの中にあった夢と物語を思い起こして、物語の中を動き回り弄ぶって、どうよ? …とかなんとか、思考はまた元の場所に戻るのであった。MCをゲームや今こうやって語るという行為に置き換えて考えてみたりなんだり。『動き』続けることでしかそれは表現できないのか? いやまて、『動き』を動かぬ「絵」に閉じ込めることだって…ぐるぐるぐるぐる。無限の終わりは何処でしょー?



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