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《雑記帳 3月》
【2-3】 【3-1】 【3-2】

3月3日 世界と私は不可分であり、『動き』と『存在』は同じなんだ -MISSING GATE-

 全てはゲームプレイという『動き』の中にある。
 自身が存在している事に気付くというのは、自身の『動き』を自覚することであり、自分が動き存在していた理由、これから動き存在する理由という物を考える事でもある。
 そして『残余』で私は漫画「ベルセルク」のフレーズを借りて書いた。
 その理由こそが「この世界に決定的に足りない、最初で最後の欠片」であると。
 無いのだ、初めから。
 だが、折原浩平のように、自身や世界の『存在』に気付いたのが、近しいそれの喪失であったとき、存在理由の『無』もまた『喪失』として認識されてしまう。
 喪失したものであれば、何処かにあったはずだと。
 彼らは何処にも無い、あったはずのもの、あるはずのものに憧憬を抱き、探し続ける事となる。
 何処にも無いそれが発見されることはないけれど。
 そして、そうして、そうやって探し『動き』『存在』することでそれは創造されていくのだ。

 沢渡真琴。

 その喪失で自分が温もりの中に存在していたことに気付いてしまった人でない少女は、もう一度、温もりの中に身を置くことを望んで“思い出"に還る。
 喪わず、だから気付かず、ただ温もりの中にいられた、何も知らなかった、純粋に無垢だった、自身が温もりの中に『存在』していたことすら気付かなかったあの頃に帰り、人間としてそこに『存在』するために。
 けれど、それを彼女に望ませ実行させた理由は、知ってしまった過去の記憶からなる彼女の感情であり、その記憶と感情によって『存在』する彼女からは、決してその記憶と感情が消し去られることはない。沢渡真琴という名前が、人の姿がそこにある。
 故に彼女は、帰り、手に入れられる筈の温もりを甘受することが出来ない。
 もう一度、あの頃のように。祐一に好かれていた、あの人のように。
 その想いは、あの頃にはなかったその想いがある故に決して適わない。
 そこには、彼女が人として『存在』する理由が無い。
 しかし彼女は見つける。適わないものを望む日々の中で見つけた、過去と似て否なる想い。
 『祐一とけっこんしたい…』
 そして、そうして、そうやって彼女は『結婚』を見つけて、それは彼女の人としての、真琴としての『存在』を望む者の手によって創造される。
 けれど喪失によってかつて『存在』を知ったの同じように、『存在』する理由が生まれたとき、彼女から『動き』は消え、その存在もこの世界から消えていく。
 温もりは過去にしかなく、望み続けたそれに再び包まれていたのを知ったのは、そこから引き離される事を悟った時でしかなかった。
 彼女は幸せだったろうか。
 すべては、報われただろうか。
 それでも本当はみんな大好きだったことに気づいていれば、幸せなはずだった。

 ああ、どうか最後は幸せな記憶を。


3月4日 ナコルル萌え

 ナコルル萌え=リアル「ONE〜輝く季節へ〜」説というのを考えつく。
 二作目で死んでしまったのに新作に出続ける彼女の姿を見続ける作業の苦しさは、求めた「永遠の世界」が叶ってしまった痛みに似ているのではなかろうかとか。
 そんな観点でOKAMAのナコルルとの対話を読むと、またずーんと胸が苦しくなる。
 OKAMAと言えば、どっかの人形使いが烏になるのよろしく人がネコになってしまうお話であるところのコミック、「CAT's WORLD」(角川書店・A5版・960円)が完結していた。良い意味で予想を裏切られ、とってもレビューを書きたい気分なのだけれど、例によって余裕無いので、今は気になった箇所を少し引用。

その時に あなたのことを 好きだった人が いたとしても
あなたは何も覚えていない

あなたはその存在すら知らずに生きていく

あたしの思いも忘れられてしまったのよね
あたしの心もネコになれば もう一度出会い 同じ気持ちを共有できる

だけど

今の記憶からなる あたしの感情は
もう一度 あの時みたいに
愛してるって 言って欲しいの

瞳を見るだけで
微笑むだけで
2人の思い出に共有した感情が真実だって
不変だって安心感に震えていたい


人が欲する物は 初めから 決まってる

宇宙に行けたからって
計画通りの子供を産めたからって
人工知能を作れたからって
そんなに幸せじゃない

そんなに幸せになっていない

架空の自尊心が無用な目的を積み上げていったって
幸せな群れを作りたいだけなのに

嘘つきが作った
言葉という愛さえも説明出来ない曖昧な記憶の虚構に騙されて
起こるのは 取り付かれた 悲しい事ばかり

それならば いらないんじゃないかって 思ってる


3月7日 たまには漫画の話を(ここ、漫画のレビューサイト…)

>自分の考えてることが周囲にダダ漏れになってるんじゃないかとか想像したことはないですか?

 そういえば、そんな逆七瀬な漫画がモーニングのマグナム増刊にあったなぁ…と思って検索してみたら単行本化&映画化されていた。佐藤マコト「サトラレ」。
 思考が外部に伝わってしまうという奇妙な疾患を抱えた「サトラレ」と呼ばれる人々。
 第一号患者が「思考が周囲にダダ漏れ」という状態に耐えられず自ら死を選び、国家は「サトラレ」自身にそうと気付かせないための保護法を制定し、その為の公務員を配置した…という状況での、「サトラレ」達と彼らを取り巻く人々の物語を描いた連作短編。
 自身がそうだとは気付かず、市民の協力の元で普通の生活をしている「サトラレ」。
 誰かの何気ない反応や一言で壊れてしまう、薄氷の上を歩くような「普通」。
 自分がそうだと知り、人を遠ざけ、無人島で暮らし、でも誰かに逢いたくて、でも逢えない自分を笑う「サトラレ」。
 医者を目指す「サトラレ」。
 けして善人では無い彼らの思考を知り、周囲の人々は何を思い、どう接していくのか。
 サトラレという極端な症例から描かれているけれど、この作品に描かれている人対人のコミュニケーションの問題は普段の我々のそれの延長線上にあり、「サトラレ」にとっての電話や電子メール、ビデオレターという手段の切実さは、そのまま現代に生きる我々にとってのそれとも重なる。
 その問題は必ずしも解決されず、必ずしもハッピーエンドにはならないけれど、これらの「サトラレ」に関する物語は温かい視点で描かれており、読後感はかなり良い。
 将棋差しを目指した女子高生「サトラレ」の話なんか、すげえ、萌え。あのプロ羨ましいぞ。
 しかし、「実は自分が気付いていないだけで思考はダダ漏れかもしれない」というネタを書こうとしたとき、「トゥルーマン・ショー」みたいに晒し者にされているというのではなく、この「サトラレ」みたいに我々は誰かに見守られて(保護?)されているのかもしれない、というシミュレーションを考えつくのは、本当に、いいな、と思う。上手いな、とか目の付け所が良いな、ではなく、いいな、と。
 思考シミュレーションとしては楽観的すぎる(サトラレは天才だから保護されるとか)節もあるけれど、今の私にはこのくらいの方がいい。栞じゃないけれど、お話の中くらいは希望を見ていたい。まぁ、他人の不幸は密の味、渡る世間は鬼ばかり、その内にまたイタい話が欲しくなったりもするのだろうけれど。
 ともあれ、橘裕「Honey」三巻や本仁戻「高速エンジェル・エンジン」二巻(この続きの掲載される予定の雑誌「少女帝国」はなんだかすぐ休刊しそうで不安…)と共に今度買いに行かねば。


3月11日 「ファイブスター物語」雑感

 連載初期ではファティマという存在が、相当なインパクトで受け取られたようでした。ファティマというのは、これまでにアニメをつくったり見てきた人たちが漠然と感じていた理想のヒロイン像を、露骨に表現した部分もあったから、嫌悪感を持つ人もいると思う。ある意味、男性にとって非常に「都合のいい」存在であるのが彼女たちなんだけど、その反面誰しもが彼女らに「選ばれる」わけではない。いまの読者はこういう構造を例えばアイドルという比喩ですでに知っている。自分たちと彼女の間にある境界線を敢えて越えるのか、あきらめるのか。パートナーになれるのは本人次第なんだけど、境界線を越えて辿りつかなきゃならない特別な存在があるんだってこと、それは当り前の事実なんだってことをファティマという存在は体現しているんだろうね。

 引越し作業中に出てきた「ニュータイプ」誌の付録「ALL ABOUT MAMORU NAGANO」をしばし読み更け、「結局、今のオタク系作品の殆ど全ての要素はFSSの中に集約されてんだよなぁ…」という考えを更に強める。
 かつては文学少年であり、富野アニメの熱狂をリアルタイムで奥さんともどもコスプレしたりしながら体験し、絵を描いては「スターログ」の裏表紙を飾り、エルガイムの製作に関わり、メタルに傾倒し米軍キャンプでライブをやり、「ときメモ」にハマり、「VF」に騒ぐという、70・80・90年代のオタク系サブカルチャーを高密度で全力疾走した人間が現役のまま描き、尚も連載を休んで「PSO」にハマっている作者の手により現在進行中であるFSS、「ファイブスター物語」という作品には、当然のように「ある」わけだよ。俺等オタクが見てきたものが、見てきたままに。
 例えばギャルゲー・エロゲーの台頭で現出した擬似世界での擬人との擬似コミュニケーション、擬似恋愛・擬似セックスという「ゲーム」のミもフタも無い形、今、Deepだのなんだので私がうんうん唸っている「ゲーム」とプレイヤーの関係というそれも、FSSにおいては、ファティマと騎士とMHの関係、擬似セックスで擬似の子供(の動き)を生み出すというミもフタも無い形でそのまま描かれている。
 それは「ゲーム」に限らず、アニメや小説、ようするに物語表現が持っていた危うさの具現化であり、富野カントクが「即刻連載をやめさせろ」「負けてられるか」と怒鳴り、エヴァの綾波で僕等が大騒ぎし、やっぱり富野カントクが怒ったような、「作り物」に傾倒することへの漠然とした忌避感と快感と新しさを想起させる。
 「私のこと、忘れないで」「彼女らとて人間に生まれたかったのだ」というウリクルの言葉やコーラスIII世の言葉の切実さは、境界線の向こうの彼女と僕等の間にある切実さだし、ファティマが嫌いでMHに乗れず道を踏み外したという騎士や、「ウリクルが死んでくれて嬉しい」とクロトに語るエルメラ王妃、「私を殺して」と境界線の向こうの神、全能の存在のドラゴンに対し願うファティマ・アトロポスの痛々しさは、境界線を通り越してくる向こうの世界の侵食への僕等の抱く切実さであり、忌避感であり、嫌悪感であり、憎悪だ。
 それに対しての「ファティマに対しては物のように愛し、物のように愛でよ」というレーダー8世の言葉は最も理性的な判断だし、「ファティマのいらないMHを作る」というソープの言葉は「プレイヤーのいらないゲーム世界」を作るという事で、ファティマ、境界線の向こうのキャラクターや世界への究極的な愛情であるわけなのだけれど、実行されるそれは別れなんだよね、「さようなら」(※)。ファティマに対する肯定も批判も全部作品内にあり、そして誰が肯定しようと否定しようと、ファティマは現実に必要とされ、存在してしまった、存在しているという大前提が横たわる。
 境界線(空)の向こうのファティマ(観鈴)と関わる事の出来る特別な人間である騎士(往人)。それを更にモニタの外部から見まもり介入できるが最低限しか介入しない/できない神達、アマテラス、ドラゴン、スペクター(製作者やプレイヤー)。
 「AIR」なんかはそういう状況を作り出して「ゲーム」「オタクメディア」を体現して見せたわけで、それによってそれまでは隠蔽されてきた境界線を見せられてしまった我々はコーラスやソープ同様に悶々としてしまったわけだけれども、FSSは境界線なんかハナから曝け出した上で、その状況の中で切なさに悶々とする連中と、境界線の内だろうが外だろうが、とりあえずヤっちまえばいい、気に入らねえ奴はぶっ殺せ、死ぬときゃ死ぬんだ人間は、なるようになるさ、という、余りにも真っ直ぐで正しすぎる「ファティマの魔性にとっ掴まるほど落ちぶれちゃいねえ」デコース・ワイズメル、「俺はファティマに希望を与える」と、人を超える力と自由意志を作り出して人間の駆逐を助長させるようなマッドサイエンティストなバランシェ、そして彼らを無感動に見守る神なんかを縦横無尽に駆け巡らせてきたわけだよ。
 今まで多くの作品や評論が一元的にしか語ってこなかった「ゲームとプレイヤー」「作品と受け手・作り手」っていうのが、視点を変えて繰り返し繰り返し描かれ一個の作品内で立体的に表現されていくのがFSSであり、そこらのそういった要素を持った作品というのは、FSSにおいてはある意味、切り口の一つでしかないのだよ。すげえ。
 そんな感じで、エヴァにしてもGPMにしてもAIRにしてもちょびっつにしても、オタク系の作品というのはなんだって切ろうと思えば切れる物凄い作品であるわけですよ、FSSは。ということで最初の結論に落ち着いたわけだ。そこら辺の作品を見る時は「所詮それってFSSでもうやってることじゃん」ではなく、すげえぜFSS、まんせー、クリスと叫んでおくのが正しいよな、とか。

 ただ、そういう物凄い物語や設定、世界を含めての秀逸なデザインを持ったFSSって、物語、概念としては凄く面白くても、でも漫画としてはどうにも面白くなかったりするんだよな。
 同じようなことは「AIR」や「ONE」にも言えて、これらは凄い物語でありゲーム表現なんだけど、ゲームとして見るとどうにもつまらない(ONE・AIRなんかはゲームであることに自覚的であるが故にそれが目立つわけなんだけえど、逆にゲームであることに無自覚で、無意識的にそれを放棄してしまったFFやKanonの方がゲームとしてのつまらなさが目立たないというのは皮肉だ)。
 境界線、メタ的な要素を強く打ち出しちゃうとそうなのかなっていうと、GPMなんかはゲームとしても物凄く面白いわけで、ようは打ち出したその後の書きようなわけだ。
 FSSの境界線を打ち出した「その後」はこれから始まる。正確にはもう始まってるのかもしれないけれど、まぁ、ホンチャンはこれからだろう。作者、ようやくMH戦書くっていってるし。
 「マジェスティック・スタンド」。神が人間を蹂躪する大侵攻からファティマ・ユーパンドラの治世とその崩壊、更にその後の物語…。境界線を間においての人対人、神vs人間、ファティマvs人間、神vsファティマ、神vs神、ETC…
 そろそろPSOも終わったらしく連載再開であり、始まる筈の「その後」が非常に楽しみであるのだけれど、FSSの連載再開一発目というのは、予想を裏切り度肝を抜いてくれると決まっているので、きっと思った通りにはならないのだよなぁ。別の意味でも楽しみ。

(※)1000年目に境界線の向こうの存在であるはずのバランシェを愛してしまい、彼を死なせんと神としての力を使おうとするソープ、それを拒否し死んでいくバランシェの姿は、ゲームプレイヤー/物語介入(創作)者が持つ全能性と、ゲーム世界からのその力と権限の使用の拒否であり、「AIR」が最後の最後でプレイヤーの介入を拒否し世界内だけで完結してしまった事と重なる。Whiteさんが言っていた「ゲーム」の不如意性とも重なるかもしれない。その世界がその世界である為には、その世界の法則の枠内でしか物事は起こってはいけないのだろうか。


3月14日 愛はさだめ、さだめは死…つーのは関係ないか

 札幌を引き払うにあたってやってきたことといえば顔馴染みへの挨拶周りであり、会う人会う人に「太ったね」と本人も自覚している認めたくない現実を突きつけられることであったわけだが、某所においては「インターネットの配線」とやらを引き受けた見返りに食事をゴチになり、その上バイト料?兼餞別を頂き、その現実の金と今まで貯めていたゲーム屋のポイントを一気に使ってDCを買ったりプリズマを買ったり「さよならを教えて」を買ったりという、現実の金で非現実を買い現実逃避とか現実の隙間の埋め合わせを行なうという現実への復讐が出来たので+−0…の筈だったのだけれども、買ったゲームは開封もされず、引っ越した先の実家で会う人会う人にやっぱり「太ったね」と言われているという現状は結局、現実に負けているではないかコンチクショウということで、最近は実家に置いておいた昔の本を整理したり読み返したりで余暇を過ごしています。まぁ、本といっても私の場合は主に漫画とかゲーム雑誌なんですが。
 そんな中で発掘した「さよならを教えて」をプレイする前にシナリオライター石埜三千穂が昔に「HipponSuper」誌で連載していたゲーム音楽コーナー「ゲーム音楽啓蒙講座 テクノの部屋」なんですが、「Love is Dead」(乃怒亞女さんの某作品においても引用されていた、某有名なロケンロールなあれ)が「さよなら〜」の製品紹介に書かれているのもさもありなんな感じで、超兄貴を絶賛しつつツェッペリンについて語ってたりしてます。素敵。
 前に雑記で言及した氏の「ベアナックル3」発売時の古代祐三インタビューも確認。

石埜  これまで古代さんの色んな作品を聞いてきて、ぼくは……失礼なんですが……ああ、この人は最強のGM職人なんだな、と思っていたんです。だから子供たちが古代さんの名前をしばしば口にするのを聞いててね、そういうもんなのかな、ぼくなんかがロックミュージシャンに憧れたのと同じような気持ちを持てるのかな、と少々疑問を感じていたんです。ところが今回の『3』を聞きまして、あ、これはただの職人じゃないぞ、と(笑)。こうしてお話をうかがって初めて、なるほどと納得できましたけれど。

 音楽のことはよく判らないし、件の『3』の音楽だって今聞いても正直ハイレベルすぎて良いのか悪いのかも理解不能な音なのだけれど、とにかく記事やインタビューは面白い。ベアナ3での古代祐三と川島基弘の出会いはまるで麻枝と涼元の出会いのようだとかいうのもあるし、ゲーム音楽の啓蒙というスタンスのこの連載はGameDeep的にも色々と参考になりそう。
 ということで、古代の最近の仕事であるPS版「カードキャプターさくら」をBGMに、北伐と称してウチに遊びに来るONE卒の一部メンバーとこれらについて語り合うというのも乙かもしれないので、参加者はPS版「CCさくら」を持ってくるように。<参加メンバーは誰も持ってませんて。多分。


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