近況と雑記

10/8
●突発的KtF日記 その1

 周囲で聞こえてくる元長という名前、その作品に対する声の数々が鬱陶しかった。
 どういうわけか、私が嫌いじゃない人間ばかりがその名前を呼んでいた(変な話だが、それに嫉妬も覚えていたさ)。
 最新作が発売され、また周囲が騒騒しくなり、あまりの五月蝿さに憎しみすら覚えるようになったとき、彼の最新作を手に取った。
 それは、あらゆる意味で不愉快極まりないパッケージをしていた。


お兄ちゃん、ボクのこと、奴隷にして(はぁと)

「未来にキスを」
KISS THE FUTURE

幼なじみの従姉妹と、いちゃいちゃごろごろするゲーム


 コテな萌え絵(八重歯・首輪付き)に魅惑的なコピー。
 しかし周囲の声を聴くに、ゲームの内容はそのように喧伝されたコピー通りであるらしいが、同時にそういうコピー通りの部分は作中において、そしてプレイヤーにとって、「好き」という概念だのなんだのを考える為のモノになっているらしく、「奴隷だわーい、いちゃいちゃごろごろー」と無邪気に(邪気ありまくりの気もするが)楽しむ類のゲームではないらしいのだ。
 なんてアクラツなパッケージなのか。
 冷静に考えれば別に私が怒る必要は無いのだが、勝手にプンスカ腹を立てながら不愉快な想いでインストールし、ゲームを始める。と…

「はみゅー。お兄ちゃんの意地悪ー、ボクはおりこうさんだもんー。ハンバーグはおいしいから好きー」
(注:実際にはこんな台詞はありません。多分)

 いかにもな声優声。萌え心をくすぐる変な口癖と一人称「ボク」。身近な食べ物に対する執着。
 方程式通りに配置された記号が「萌えろ」と訴えかけてくる。
 …ダメだ。ダメ過ぎる。
 なんてダメなゲームなんだ。
 頬が緩むのを必死に堪えながら、元長サイテー、元長サイアク、嫌い嫌い大っ嫌いと呪文のように唱える。
 ここで萌えては敗北である。
 普通はここで負けて萌えー状態になっても幸せなだけなのだが(故に通常のエロゲプレイではむしろ意識的に敗北するよう自分を持っていくべきなのだが)、この作品の場合は落とし穴があるらしいので迂闊に萌えるわけにもいかない。
 …って、いや、むしろ逆にロールプレイしてでもダメ人間としてコレに萌えまくっていたほうがいいのか?
 萌えまくったら後から来るらしい落とし穴に強烈に嵌まって多大なショックを受けるのだろうけど、それがこの作品の仕掛であるならそうすることの方が正しいのか…いやいやあんな如何にもなパッケージだったりっていうのはようするに、こういう分かりやすすぎる記号ややり方でプレイヤーが萌えるという美少女ゲームや時代性やなんやかやの構造をメタ的に見ていけということなのか?だとしたら入り込んだら本質を見逃すだろうか?どっちだ???
 うーんうーん。

「はみゅみゅみゅみゅー。岡崎さんが起こしてくれるから大丈夫だよー」
(注:多分、こんな台詞も無い)

 岡崎さん…なんてラブリーな響きなんだ。
(「まぁいいや」とりあえず悩んでいたことをそんな言葉で片づけて雪駄は岡崎さんに萌えることにした)
 ステキ。
 欲しいなー。そういえばPSOのファミ通カップの商品に岡崎さんがあった。こんどゲットしよー。
 …萌えて幸せなはずなのに、なんだかとてつもなく元長に負けている気もして、複雑というか不愉快な気分になった。でも岡崎さん萌え。

10/10
●突発的KtF日記 その2

 式子に出会う。
 話し方や声が嫌いじゃない。
 話す事柄も面白い。
 過去と未来のこと、とか。
「これは私の物語だから」。
 向こう側にプレイヤーでもいるのか、と一瞬思う。
 椎奈と出会う。
 声が嫌い。
 悠歌さんと出会う。
 声、好き。
 絵柄のせいか、各キャラを見ていてなんとなくサターンの「マリカ〜真実の世界」を思い出す。
 他、椎奈の母上やしゃもじの人、岡崎さん、一枚しか立ちグラがなさそうな謎部活なクラスメイトも確認。
 気が付くと、霞とごろごろして寝た後、岡崎さんに起こされ、霞との登校風景の一枚絵を見た後、途中でしゃもじの人と会話、入れ替わりの椎奈と馬鹿をやって気が付くと遅刻の心配、教室に着いてほっとすると始業直前に式子が入ってくる…。式子や霞と一緒に昼飯を食って、授業が終わるとぶらぶら…家に帰ってまた霞とごろごろ…寝て、岡崎さんに起こされて…という、半ばパターン化した日々の中にいた。
 そしてそんな繰り返しのような日々の中、ほんの少しずつの変化について主人公が語る。
 このパターン的な日常とこれから起こるであろうそこからの逸脱は、とことん計算されているのだというのが嫌でも伝わってくる綺麗な構造に感心すると共に妙な…居心地の悪さのような気分を覚える。
 当初は勢い込んで電柱に頭をぶつけていた椎奈が頭をぶつけなくなり、日々の中、徐々に電柱から離れたところで止まるようになっていく。
 しかし一方で、彼女は会いたいというしゃもじの人には会えないまま日々を重ねていく。
 なんの朝連をしているのか、なんの部活に入っているのかがさっぱり判らないクラスメイトを不審に思い、主人公は毎日のように彼にそれを尋ねるが、毎回毎回それははぐらかされ、決してそれが判ることはない。
 これは…分かりやすい例えで言うとKanonにおける秋子さんの職業や年齢、謎ジャムと同じようなギャグであり笑いどころなのだろうけれど、どうにも笑えない。
 恐らくグラフィックを用意されていないのだろう表情を全く変えないクラスメイトが、仕様なんだよ、世界はここまでなんだよ、と言わんばかりに、質問に対し、答えにならない答えを返す。
「何をしてるのかって? おかしなことを訊くね。部活は部活だし、朝練は朝練だよ」
 何をどう訊いてもこういうような答えが返ってくるというのは、結構怖い。
 安直だがプリズナーNo.6とかマトリックス、俺的ONE永遠の世界を想起する。
 主人公や他のキャラ達って、このKtfという空間に閉じ込められてるんだったりして。
 それに気付きはじめた主人公。それを阻止するべく、彼に快楽を与え溺れさせ、思考能力を奪う為の霞の「奴隷にして」宣言…
 …安直すぎるか。
 しかし、ああ、いつか椎奈はしゃもじの人に会えるのだろうか。
 それが一つの鍵のような気がして興味が湧くが、式子の意味ありげな台詞とかの存在がどうにもそういう風に考えるよう誘導されてる臭く、トラップに引っ掛かってるような嫌な感じも拭えない。


10/11
●突発的KtF日記 その3

 風は式子から吹いているらしい。
 結果や事象、自身の行動について筋道立てた理由を欲しがり、それがないと納得できないような事を言っていた彼女の衝動。
 ここでは彼女を一個の人として見、彼女や主人公の立ち位置から突然来るそういう衝動やその結果について考えたりするべきなのかもしれないけれど、私はどうにもこの彼女の衝動というのが文字通り、突然、外部から来たもののような印象を受けてしまった。
 即ち、物語的、或いはゲームシステム的必然=主人公が彼女と一定回数以上会っていたが為に「フラグが立った」から、彼女の意志とは無関係にそういう衝動が彼女に発生したのではないかという疑い。
 彼女を一個の人間ではなく、ゲームのキャラとして見る視点が生れる。
 運命が動き出したことに気づいた、とでもいうような大仰な心理描写、風が吹いていた、なんて大袈裟な表現は単なる事実で、つまり、主人公と式子は、この「フラグが立った」システムが動き出した、物語(式子シナリオ)が始まったという状態を知覚しているということか? なんて発想に辿り着く。
 してみれば、「私の話」「私の物語」といっていた式子の話もそういうことなのか?
 自身をゲームキャラとは認識していないかもしれないが、彼女等は自分達がそのシステムの中にいることを自覚している。
 そのシステムに従って自動的に揺れ動く自分の感情や衝動、導き出される物語について悩み、考えている。
 …これは面白い。
 急激に興味指数が上昇する。
 しかもそういうことを想起させながらも、内部で進行する物語は飽くまで人間の恋愛物語だ。
 そしてこれは見方を変えれば、システムに沿った行動しかできないロボット同士がシステムという枠の中でどう恋愛していくかというSFでもある。しかしそういうSFは拡大解釈すると、ロミオとジュリエット等、身分の違いとかそういう制限上での人間の恋愛ものと同じであり、結局一周して単なる恋愛ものに戻るのだ。
 ゲームという枠を通し、単なる恋愛物語をやる。そのことが受け手が様々な意味を感じるように仕向けている。しかし結局はただの恋愛物語に帰結する…
 むう、無茶苦茶面白いではないか。
 勢い込んでゲームを進める。


10/12
●突発的KtF日記 その4

 式子が「キミの意志で選んで欲しい」と言った。
 そして選択肢。
 なんだろうこれは。
 プレイヤーの行動により既にフラグは立ったのではなかったのか?
 式子の物語は始まったのではなかったのか?
 にも関わらず式子はシステムの外部にある意志を求めている。プレイヤーの意志を求めている?
 いや、この展開なら、ゲーム内部のキャラである式子が求めるのは同じく内部のキャラである主人公の意志であり、プレイヤーの意志ではない筈だ。
 ならば、式子の意志通りに現れたこの選択肢は、文字通り主人公に突きつけた選択である。
 自分達の外にあるシステム(それを動かすプレイヤーや作者)が勝手に動き自動的に発生させたものではなく、自分達自身が選んだ、生んだ物語が欲しい。
 そういう式子が望む物はそういった外部・システムと無関係なところから生じる主人公の意志であるはずだ。
 ということは、たまたま式子というキャラクターが主人公に突きつけたそれと同時に発生しているこのプレイヤーに突きつけられたこの選択は、ゲーム内部の式子からではなく外部の何かから発生した物だ(考えてみればシステムに従わされる役目を負わされた式子がシステムを負うことが出来るわけもない。…なんて考えることもなく当然のことかもしれないが)。
 この選択肢の存在の理由は外部にある。
 しかし作られたキャラである式子が望む、システムではない自分達の意志になる選択はしかし結局、システムと同じく外部の何か(誰か)がそうと設定することで生れる。
 式子が望むゲーム内部の、そしてシステムとは無関係な主人公の意志が、外部の作者の決めた設定とプレイヤーの選択によって決定されるという皮肉。
 それが式子の後ろにいるもの、つまりはシステム・それを組み立てた作者、或いは仮構された式子のプレイヤーが主人公のプレイヤーに向けて行なった選択の理由なのだろうか? 所詮、お前は我々ゲーム外部の人間の掌のうちなのだと。…だとしたらかなり底意地が悪い(この選択によって、作者と共にプレイヤーは式子や主人公を掌のうちに乗せた共犯ということになるし)。
 ともあれ、この選択肢の存在が意味するものは、ゲーム内における(主人公を含む)キャラクター同士の関係、主人公という、プレイヤーが移入・ロールプレイし、その世界で他のキャラクターと等価になるためのプレイヤー・キャラクターとキャラクター同士の関係とは別に、彼らキャラクターの背後に居るプレイヤーや作者といった高次の人間同士の関係もこの作品は想定しているということである。
 それはGPMというゲームがアリアンという他プレイヤーを仮構することで行なったことや、PSOという特異といっていい形態のネットゲームが持ちえたものを連想させた。
 少々興奮気味にIRCでそれを口にしたところ、C.F氏に「KtFはAIRのパロディ」という言葉を返され、激しく納得と同時に脱力。
 …そのままKtFは一旦中断、ラグオルに降りて岡崎さんを貰いうけたり(※)。
「光になれ〜!!」
 ぴっこり。

(※)そう、雑記の日付はプレイした日ではないのである。式子の衝動がゲームシステム・フラグの必然ではなかったことも今では知っている^^;


10/13
●突発的KtF日記 その5

 エピローグ1を見送る。
 上手い。
 あざといほどに上手い。
 「お兄ちゃん、ボクのことを奴隷にして」なんて奇天烈な状況設定に始まった話は、その状況設定故のなんだか綺麗なイイ話に纏まってしまっている(ように見せかけられている)。
 繰り返しに関連し、恐らくはKtFというゲーム全体のキーにもなるのであろう指輪も、このシナリオ内でのキーとしてもきっちり完結、機能しているし。
 上手いなぁ、とつくづく感心。
 ところで、しゃもじの人と椎奈の邂逅などはあっさりと果たされていた。
 ゲーマー敵見地から予想していた、そうした繰り返しや式子のシステムの件にしても同様。
 他シナリオでなんかあるのか、或いは単にそう意識するよう仕向けられただけなのか。


10/15
●突発的KtF日記 その6

 メガドライブ(海外版)。
 これまでの展開内にあった要素はどんでん返し的な設定や状況の提示なく、飽くまで通常の美少女ゲームとしての枠内で回収され、収束していく。
 ゲーマー的見地から予想・想定していた、ゲームというシステムを利用したアクロバティックな収束が起こるわけではない。
 例の指輪の件や式子のシステムの件も、飽くまで展開する物語内で回収され、さらりと流れていく。
 ゲームを使用し、利用もしているが、それが出張って来ないのだ。
 しかし出張って来ないことで、逆にゲームという形態の利用法の上手さが際立つ。
 この作品では、現状の(美少女)ゲームという枠、システムの特色――今までに麻枝作品やGPMなんかがこういうことが出来ると提示し、しかしここまでなのだと限界を示すことで絶望や希望と共に示した特色――が利点としてフルに活かされているのである。

A:プレイヤーのいる現実世界
B:ゲーム(システム)
C:ゲーム内世界

 ゲームという媒体において物語を描く場合、ゲームシステムという存在が足枷になる。
 物語とシステムの間に齟齬が生じる為だ。
 例えばRPGにおいて、プレイヤーのミスで物語上まだ死すべき存在ではないキャラクターが死んでしまい、物語に矛盾が発生するように(FF2において、死んでいるヨーゼフに助けられ大口開けた人はそれなりにいるよね)。
 このシステムという足枷についての対処法は三つある。まぁ、三つといっても(特に1と3、2と3は)最終的には重なる部分が出てくるので結局は三つとも同じことなのかもしれないのだけれど。
 一つは、システムとゲーム内世界を完全に一本化すること。所謂VRとか。
 もう一つは、システムが産み出す作者の想定する物語にそぐわない展開をゲームオーバーとして排除したり、「ゲームだから」の一言で片づけたりすること。
 最後の一つはシステム上で起こる事を世界観や物語の中に組み込み、逆に利用するという方法。
 三つ目の方法によって、多くのゲームは現実とはかけ離れた世界を持つようになり、逆にそのことが「死人が復活の魔法で必ず生き返るRPGの世界における死って何よ?」みたいな矛盾を生み、そういう更なる矛盾をFFとかミネルバトンサーガなんかは神に選ばれた「光の戦士は復活できる」なんてこじつけ、ファンタシースターみたいなSF系はクローンなんて言ったり、ヘラクレスの栄光みたいに絶対に死なないキャラという存在の不思議を逆にシナリオの根幹に組み込み、YU-NOはADVゲームの分岐構造自体を表面化させシナリオに組み込み、ノベルゲーム等はシステムを簡略・固定化するなんて方法をとるなどして、ゲーム表現は枷であるシステムを物語の為に利用し、BとCの一体化を進めてきた。
 しかしそういったBCが繋がりゲームという表現が物語る手段としてのカタチを見せ始めた流れの中、プレイヤーのいる現実世界AとゲームというBCの間に距離が生じ、Bというシステムのお陰でプレイヤーとして参加できるはずの身近な世界Cが、逆にBというシステムが物語の枷になった結果の為に遠のくといった状況も生まれている。
 近年ではそういうことも含めてABCを考え、プレイヤーとゲーム、物語の距離を利用する事でゲーム表現という物語のカタチを活かしたプレステの「風のクロノア」だとか、そういう距離そのものを実感させ利用したAIR、GPMなんてのもあったわけだけれど、KtFはそのどれらとも違ったカタチでゲームを使っていたのだ。
 KtFはゲーム表現において問題と考えられてきた(のであろう)BとCの間にある齟齬を解消(或いは利用)するために世界観やシステム、物語をわざわざ弄るということを全くしていない。
 かといって、齟齬を齟齬のままに「所詮ゲームだからこれが仕様」なんて開き直っているわけでもない(まぁ、或意味では完全に開き直っているんだけど)。
 KtFはシステムとの齟齬を齟齬としないシナリオを搭載しているのだ。
 KtFが扱っているのは現代劇。しかも恋愛、人と人の間の物語。
 今までゲーム、特には美少女恋愛Hゲームなんていう都合が良くて単純な枠組みシステムと、複雑極まりない(らしい)人間の物語なんてものは相容れず、故にシステムは極端にパロディ化するか簡略化しテキスト主体にするか、高度なシステム構成を行なうか、或いはシステムの齟齬を齟齬と受け入れた上でそれを利用し、少々変わった世界観の中でそれを描くというのが一般的だったと思うのだが、KtFはそういうことを一切していない。
 ゲーム内世界CとシステムBの関係は、C内で語られる物語「人間Aとそれを取り巻くシステムB’」の関係と同様であり、Cで描かれるのがAの物語である以上、わざわざCの為にBの事を、Bの為にCの事を考える必要がないからだ。

B’:現実世界を取り巻くシステム
A :プレイヤーのいる現実世界
B :ゲーム(システム)
C :ゲーム内世界。その住人A’

 CはAとB’の物語であり、同時にCとBの物語である。
 全ては既にCの内部にあり、Cはそれだけで全てを内包している。
 プレイヤーはCを見つめる事でA、B、B’そしてプレイヤー自身をそこに見出すだろう(なんか似たような事をONE卒に書いたなぁ)。
 こうなると最早、ゲームという媒体における物語を見る上でCとB、AとBとCの間にある距離は問題にならない。
 いやはや全く素晴らしいゲームシナリオである。
(しかしB’がゲーム内のBと無関係に存在する以上、このシナリオはゲームに載せなくてもなんの問題もなく機能する)
 そしてこのシナリオは、ゲームという表現技法をフルに活用して語られている。
 ゲーム表現としては言うこと無しである。
 しかし、面白い事にそこにはゲームへの拘りというか、ゲームである事への執着がまったく感じられない。
 AIRやGPMにあったゲームへの偏愛が感じられないのは勿論、そういったゲームへの偏愛ではなくゲームを作るんだからゲームならではのことをしよう…という拘りから発生したクロノアにあった、そのゲーム使いの妙、「ゲームだからこその表現」に対する、ゲームにだってこれだけのことが、ゲームだからこういう表現が出来る…というような気負いのようなものすら感じられないのだ。
 感じられるのは、ゲームだから、ゲームの為にというような「ゲーム」という存在に向けられた物ではなく、ゲーム製作のプロフェッショナルとしての自負とでも言うべき物であり、「ゲーム」という表現技法とは無関係の作者の姿勢と力量だけである。
 KtFの作者にとっては、ゲーム製作を生業とするプロの人間にとっては、ゲームという形態が何を出来て何を出来ないかということは自明であり、そこには希望も絶望もなく、機能の自明なものを機能が活きるように作ることも単に当り前の事なのだろう。
 そういった作者のプロ意識のようなものを感じたとき、私はゲームであることを活かしているゲーム表現が稀少であるという現実や、ゲームの限界への絶望を物凄い卑怯な方法で利用して見せたAIRへの皮肉(注1)かとも思ったのだが、ジェネシスを終わらせた今となっては、皮肉ですらないらしいことに気づいて愕然としている。
 この作品はゲームへの皮肉ととられる事も想定しているのだろう事は明白だ。けれど、そこには悪意らしき物が感じられない。
 私にはKtFとは、C.Fさんが言われた通りの、AIRや美少女ゲームのパロディだったわけだが、それによってそれらを皮肉ってやろう、馬鹿にしてやろうというような目的を持っていたものではなく、単にそれらのパロディを、美少女ゲームの現状を描いているだけに見えたのである。
 愛情でもなければ悪意でもない、プロフェッショナリズムによって成立した非常に完成度の高いゲーム表現。
 しかし、そのプロフェッショナリズムによって完成した作品が志向しているのは通常、プロというものが目指すようなユーザーを楽しませる事(サービス)ではなく、現状の美少女ゲームそのものの体現?
 一体何なのか、これは。
 混乱した頭でWebを見回せば、そういったKtFを解釈し、考察して楽しんでいる人、KtF全体ではなく、Cという枝葉について同様の事をして楽しんでいる人がいっぱいいる。
 そしてこのKtFというモノへの訳のわからなさをIRCでぶつけると、今までKtFをネタ、素材として予定通りに楽しんでいる(ように見えた)C.F氏は「物体X」について考えてもしようがないと言う。
 ああ、そうか。そうなのか。
 そういったプレイヤーの反応、行動、事象も含めて「美少女ゲーム」を体現しているのか。
 ONE以降(というか、エヴァ以降か?)、ゲーム作品を媒介にしてのプレイヤーの謎解き遊びだの自分語りだのネタ話だの、それによるコミュニケーションだのが目立つようになったが、そういったものの存在も含めてこのゲームは作られているのだとも思い当たる。
 ここで私がこうしていることも、方々で起きているプレイヤーの解釈も「語り」も全て想定されているのだろう。
 考察だのなんだのに対しての意見。作者はそこまで考えてない、考え過ぎ、作者は実は何にも考えてなくてどうとでもとらえられるように作った、プレイヤーの好意的な誤解、作品を楽しむのに作者の考えなんか関係無い…etc.…このゲームはそういうのも全て想定しているのだろう。
 萌えたい人には萌えを。分かりやすいテーマを探したい人の為に物語的なテーマを。構造分析したい人の為に秀逸な構造を。ゲーム表現を見たい人には秀逸なゲーム利用を。
 作者の意図に沿って、或いはそれと無関係に? プレイヤーが見たい物を見て楽しんでいる「美少女ゲーム」という現象。
   KtFは、プレイヤーが見たい物全てを想定・用意した美少女ゲームを存在させることでその体現を為したわけだ。
 プレイヤーが作者の想定外の物を見る事も含めて、美少女ゲームがユーザーにどのように楽しまれるのかを正しく認識し、それに応えた完璧な美少女ゲームのカタチ。
 ユーザーが導き出す全ての正解は肯定され、同時に唯一絶対の真の解なんてものも存在しない。
 物凄い高度な計算が為されて作り出されたこのカタチは、「どうとられても構わないようにテキトーに作られてるんだ、ユーザーに投げ出してるんだ」なんて批判を受け付けない完璧さを持ち、同時に作者が想定したテーマだのなんだのという現代国語的に絶対的な正解ももたない。
 プロフェッショナルがエンタテインメントとして完璧な計算をして導き出した、完全な「美少女ゲーム」。
 プレイヤーが楽しむ事を想定し、その為に計算されつくしたカタチを持った存在(トイ?)としてのゲーム表現。
 現状の「美少女ゲーム」というのがユーザにとってどういう意味を持つのかを理解して上で作り出された、正しい「現状の美少女ゲーム」のカタチだ。
 今、美少女ゲームを作るプロが美少女ゲームを作れと言われたときの教科書になりそうな作品である。
 あまりに正しすぎるカタチであるが故の不満点もあるが、しかし作者もそれを自覚しているのであろうメッセージが最後に流れてくる。
 もう、笑うしかない。
 私がこの作品で目にしたのは、現状の「美少女ゲーム」というカタチの正しい認識、そしてそれを認識でき、志向した時に完全に作れてしまう作者の力量である。
 この作品の目的は美少女ゲームを理解する為に実際に作ってみるという実験、あるいは作者の眼や力量の確かさを知らしめる事なのだろう。
 この作品の向こうにはエデンが広がっているそうだ。
 これだけの正しい眼と作製能力を持ったプロフェッショナルが見せる楽園とは如何な物であるのか。
 実に期待が出来そうな話であり、今回の食材があんま好みじゃなかったこともあって、今度は是非ともビジュアルアーツさんに、この料理人により良い(出来ればワシ好みの)食材と環境を用意してあげて欲しいと思う。
 とかなんとか思いながらKtFおーばーする雪駄さんであった。
(結局、KtFのシナリオ自体の内容や好きとか嫌いとかキャラがどうでもよくなってるあたりが、ゲームを好き過ぎた罰なのかなんなのか)


(注1)
 現状のゲームの現実を前に、その限界への絶望を利用し、そして届かない絶望の中でも尚それを越えようと飛ぼうとする姿は愛しいんとちゃうか? みたいなカタチでゲームを利用した、裏を返せば、実際に限界を越えるというゲームの一つの目的成就を否定するような内容で、実際のところ、限界を突破しようとシステムを弄ったりは一切していなかったAIRに対し、同様に何もしないで現実を認識して見せるだけの作品がAIRと同様、いやそれ以上に上手くゲームを利用し、しかもより以上に未来を想起させ「未来にキスを」なんてタイトルっつーいうのは見様によっては凄い皮肉である。「明日に飛ぼうとするところに意義がある」「裏を返せば今日は飛ぶ気が無いっちゅーことですか?」現状のシステムを如何に上手く使おうと、そこから出て行く気が無いなら敗北主義者と同じやで麻枝ーみたいな<それはアンタの意見です