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《雑記帳10月》

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10月13日 死霊資料召喚

 <物語表現としてのゲーム>を書く上での大体の資料が揃う。小島監督のインタビュー記事がkojimaさんの影響でたまたま買っていた「ナイスゲームスvol.3」に載っていたのや、資料集めの副産物として☆よしみるの幻の同人誌(らしい)「GLORIA」入手はかなりラッキー。
 次の仕事(副業)の資料(とついでに契約金代わりの「加奈〜いもうと〜」)も貰ってきたので、後はプロットを推敲してガシガシ書くだけである。…筈なのだが、加奈をインストールしてしまったり。
 三角パック牛乳をチューチューする加奈にはにゃ〜ん(駄目人間)。

 さて、「加奈」は中村光一がサウンドノベルで提唱し、リーフがそれと知らず(?)ビジュアルノベルという形で確立した分岐式電子小説とでもいうべき、音と絵が付いた物語表現の作品の一つである。
 サウンドノベル「弟切草」という表現には、二つの要素が内在していた。
 一つはADVゲームや小説の一演出方法としての、モニター全体に文字を写し出し、字の送り方や表示のさせ方を音を絡めて効果として利用する要素。
 もう一つは分岐、マルチシナリオによる新しい物語の表現という要素である。

 リーフがサウンドノベルから抽出したのは演出方法としての要素だったようで、それは実質、分岐の無い複数の電子小説のパッケージである「ToHeart」がビジュアルノベルシリーズに加えられている辺りから伺える。
 サウンドノベルが複数の物語を分岐によって作り出すというのを、小説におけるオムニバスを生成するシステムとして見たということであろう。
 これはサウンドノベルという表現が示した、一つの物語表現ジャンルとしての電子小説というフォーマットを受け止め、発展させていった系譜と見ることが出来る。
 しかし、その発展は電子小説として特化させていくならば邪魔でしかない、ゲーム作業による選択という要素の意味を十分に把握できないままに行われたようで、物語としてはあまり必要でない演出として分岐が組み込まれ、なかなかページをめくれない読者を苛立たせる結果となった。

 「ToHeart」以後、電子小説という物語の演出スタイルは確立され、不要であった分岐はシナリオを選択するだけといった意味合いだけとなり、プレイヤーを苛立たせない「終末の過ごし方」のような電子読み物が生まれていく。
 これらはかつてパソコンやワープロで出ていた「テキストアドベンチャー」が、クリア後にそのまま正解分岐による結果が小説となって出力されたゲームという皮を被った一本の小説であったのと同様、紙芝居の電子版にすぎない。
 ゲームとしてのページ捲りが楽しいか、そうでなければなるたけ簡略で物語を阻害しないことがこれらの電子小説、電子紙芝居といったジャンルの必要条件だろう。
 アニメの出来損ない、電脳紙芝居等と揶揄されることも多いが、これらはその電子紙芝居のつもりで作られているのだから、それらの批判はバナナをリンゴでないと怒るようなものである。電子紙芝居が電子映画になるといってFF製作者が技術の進歩を喜んでいるのは「ビジュアルノベル」が「やるドラ」になったぜ、動くぜ喋るぜ万歳! と喜ぶ、ゲームをアニメの代用品として遊ぶアニメファンと同じように、映画の代用品としてゲームを作っているということなのだろう。「電脳紙芝居は紙芝居として楽しめ。TRPGのコンピュータ版ではないのだからプレイヤーは物語に参加できなくて当然だ」

 「加奈」はどうやら演出としてのノベルゲームの系譜のようだ。文章も読みやすく音の演出も効果的で、良い電子小説である。

 中村光一は、恐らく放っておいてもこのように電子小説は勝手にジャンルとして確立することを見越していたのだろう。自身のサウンドノベルシリーズは「小説をコンピュータで演出した表現」として次々と物語を生み出すのではなく、 分岐型ゲーム、マルチシナリオのゲームとして発展させ、任天堂のディスクADVや、剣乃ADVの「オムニバスとして別々の物語で物語全体を浮かび上がらせるのではなく、同一の物語内での視点の変化」マルチサイトという様式を受け止め、「新しい物語表現」としての「街」まで辿り着く。しかし、「街」のゲーム作業は煩雑であり、それを楽しいと思える人間には快楽をもたらしたが、そうでない人間には苦痛をもたらした。

 ゲーム作品の存在価値とは何か?
 それは娯楽性であり、プレイヤーを楽しませること、プレイヤーに快楽を与えることだ。
 しかし苦痛と快楽は紙一重であり、また、苦労という苦痛しかもたらさない達成感という快楽もある。
 良い作品とは、快楽を与える作品である。
 たとえ初めはプレイヤーにプレイすることが苦痛だったとしても、最期にそれが快楽に転化されるならば、それは良い作品である。
 たとえゲームプレイ自体が苦痛でしかなくても、クリアした時にご褒美の奇麗なCG、面白い物語を与えてくれるならば苦痛は達成感に転化され、それは良いゲーム作品となるかもしれない。
 だが、「どうせなら苦痛なんか与えるなよ」て思うのがプレイヤーの我が侭であり、ご褒美が奇麗でもそれまでが無意味に苦しいゲームならば一方的ににクソゲーと呼ぶ。

 クソゲーと呼ばれない、良いゲーム作品の条件とは何だろう?
 それは、苦痛が殆どなく快楽を与えてくれる最近の電子小説のような作品であることか、或いは、苦痛に意味があって、苦痛をプレイヤーが納得(快楽に転化)できるゲーム、苦痛を苦痛と認識させないゲームであることだろう。
 万人にとっての非クソゲーとは前者であろうが、それは遊戯としてのゲームではない気がする。
 小説や映画や漫画のような、受け手が受動的である別のメディアである。
 後者であっても、ご褒美としてのCGや物語が作業と結びつかない物は、ページ捲りやリモコン操作が複雑で面白いゲームである本やビデオのようなものだろう。BR>  それはゲームとしての進化ではなく、分化である。
 UWFショックが進化でなく、分化であったように。
 しかし、UWFというムーブメントが総合格闘技としての修斗やリングスを生み、全日本がハイスパートレスリングとして、新日本がアメリカンプロレスとして進化していったように、コンピュータゲームもまた、電子物語への分化というムーブメントを受けて「風のクロノア」や「ONE」としてゲームとして進化していっている。これから先、どのようなゲームやゲームの落とし子が見られるだろう。
 今、我々は新しい物語表現が生まれる瞬間に立ち会っている。
 映画が珍しい見世物から、物語を表現するメディアとなったように、今、ゲームは物語表現のメディアとして小説や漫画、映画と肩をならべようとしているのだ。…ワクワクするじゃないか。
(最期の方はプロレス知ってる人しか分からんね、ゴメンナサイ)。


10月14日 18禁ゲームとエロゲー

 エロゲーはエロが至上っていうのは正しい。
 が、18禁美少女ゲームはエロがなきゃいけないっていうのは、間違っているんじゃないかと最近思う。

 ここなんか読みながら、18禁ゲームはエロくなきゃいけないっていうのは、18禁ゲームというジャンルのジャンル原理主義なんじゃなかろうかとかなんとか思ったり。

 鬼畜型、感動型、萌え型どうこう以前に、KanonだのONEだの加奈だのっていうのは18禁美少女ゲーム(?)としては作られていても、エロゲーとしては作られていないのではなかろうか。
 今日は美少女ゲームについて考えることにする。

 ちょっと前から考えていたけど、PCゲームの18禁シールっていうのはPSの「暴力シーンが含まれています!」シールと意味的に全然変わらないんじゃなかろうか。
 加奈にしてもそうだけど、ゲームパッケージには「エロゲーです」なんて明記されてはいない。
 18禁ゲームってのは、「18歳未満の方は購入できません」「18歳未満お断り」「性表現が含まれています」「暴力表現が含まれています」…といった注意書きがついているゲームの総称であって、=エロゲーという訳ではないのである。
 ようするに18禁ゲームとは、お子様を配慮せずに比較的自由な表現で作られたゲームということだ。
 18禁ゲーム=エロゲーという考えは、ユーザーの思い込みに過ぎない。
 そこら辺で勘違いした人間が(ちょっと前までの俺含む)、18禁のギャルゲーやジュブナイル電子小説に対してヒステリックにこんなものはエロゲーじゃないと叫んでいたわけだが、そんなの当たり前である。
 それらのゲームは、どこにもこれはエロゲーだなんて書いていない。

 かつては18禁ゲーム=エロゲーであった。
 というか、クリアするとエロCGが見られるクソゲーというイメージがあった。
 しかし、ドラゴンナイトが発売され、エルフやアリスが台頭し、コンシュマーでときメモがヒット、ギャルゲーという概念が浸透し、リーフがエロ抜きのToHeartをコンシュマー移植してヒットし、Keyがエロを回避しても問題無い18禁美少女ゲームを出してヒットさせてしまった現在はちと違う。
 コンシュマーでは好きなことが出来ないからといって、規制の緩い18禁ゲームを作る事を選んだクリエイターが続々と18禁ゲーム業界に流入、製作、発表しているのが今の状態なのだ。
 そして流入した作品指向(?)のクリエイターによって作られた非エロゲームは、18禁ギャルゲーという、一見するとエロゲというスタイルの作品を販売してエロゲーマーを混乱させたが、その混乱の中でじわりじわりとその愛好者を広げ非エロ指向の18禁ゲーマーという市場を開拓、現在の18禁ゲーム業界はエロゲーとそうでない作品が混在してしまった。エロゲーが欲しいユーザーにとっても、エロ主体でない18禁作品を望むユーザーにとっても、非常にややこしい。
 結果、非エロゲーを掴まされたエロゲーマー達はヒステリックにエロ至上主義を叫び、非エロメーカーに文句を言ったりしているが、だからといって、非エロ18禁ゲームメーカーはエロゲーと自分たちの非エロ作品を区分けするようなそぶりは全く見せず、ちょっとだけエロい美少女ゲームを作り続ける。
 何故か?
 簡単なことだ。そうしておくとエロゲーマーがころりと騙され、本来の購買対象である非エロゲーマー以外にも売れるからである。
 どうやら、エロゲーマーは都合よく利用されているようだ。
 一部のエロ至上主義者達が非エロ18禁ゲームの不買運動を行っている理由の一つには、それを分かっていて、悔しいからというのもあるかもしれない。

 さらに非エロゲームメーカーだけでなく、非エロ18禁ゲームのファンもまた、エロゲーマーと俺は違うんだ、あいつらエロエロ大魔人と一緒にしないでください、俺達は面白いゲームがやりたいだけなんです云々かんぬんと喚いている(いや、あんまりいないけど)。
 そして彼らはメーカーに言う。「エロゲー作らないで下さい」
 まぁ、実際のところは非エロゲメーカーは元々エロゲーなんか作ってないんだから見当違いな要望なわけだが、ようするに、エロゲと間違われるような紛らわしい事をしないで下さいという事らしい。
 が、メーカーはそれも知らん振りだ。
 そんな事をしなくても作品性云々を好きなファンは買うし、そんな事をして売り上げが落ちるかもしれない愚を犯すことには全く意味が無い。
 そもそも18禁ゲーム業界に編入するクリエイターというのは、言ってしまえば作品中に性表現を出したいから18禁ゲーム業界に来るんであって、どうせ性表現を出すんだったら、売り上げに貢献するようにパッケージング、広告しようというのは当然だ。
 どんな売り方をしたって、貶す奴は貶すし、褒める奴は褒める。
 だったら、商売としてだけでなく、表現者としてもいっぱい売れて色んな人の手に渡った方がいいに決まっている。つまりは、そういうことなんだろう。
 自分たちの作りたいものが18歳未満には売ってはいけないものなんだから、端っから市場は小さい。だったら、その小さな市場で思いっきり売るしかないではないか。

 当然エロゲーメーカーだって、これはエロゲですとパッケージに書いてエロゲーマーしか買わないよりも、感動できるとかなんとか書いておいて、そっち系の人間にも売れた方がいいに決まっている。

 …どうやら、今後も18禁ゲーム業界にエロゲーと非エロ18禁美少女ゲームが混在するという、ややこしい状況が改善される可能性は低そうだ。
 自分の望まないものを手にしないためには、ユーザーそれぞれが賢くなるしかないようである。


10月15日 加奈一回目終わり

 加奈、一回目クリア。
 夕美エンド、迷走。
 ああ、色んな意味で俺らしいなぁ。

 加奈はどうやら演出様式、電子小説の複数パッケージとしてのToHeart型ビジュアルノベルではなく、行動で物語が変化するサウンドノベルに近いようだ。久しぶりに「読んでいる」だけでなく、ゲームをやっている気分になった。
 次は自分の意志は殺して、妹に邪な思いを抱いて苦悩した挙げ句に…な駄目兄ちゃんをロールプレイしてやろう。多分それがこのゲームの主旨だろうし。

 加奈って音の演出は上手いけど、音楽自体は少々わざとらしいかも。
 歌は別にいいんだけど、BGMがちと。
 劇伴は狙わずに、無音でいった方が良いんじゃないかと思ったシーンが幾つか。
 効果的なところもあったけれど。
 ともあれ、メインシナリオをやっていないんで評価は保留。丁寧な作りには非常に好感。




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