大清帝国形成史序説

『大阪大学大学院文学研究科紀要』41, 2001.3, pp.84-85.


[要旨]

 大清帝国とは、西暦17世紀にマンチュリアに興り、ユーラシア東方において大発展を遂げたマンジュ=グルン〜大清グルン政権(グルンは国家の意)の謂である。1644年以前、ヌルハチ・ホンタイジ父子がマンチュリアにおいてハン・皇帝を称していた時期においては、帝国は軍政一致の組織である八旗制の下に組織されていた。本研究は、帝国形成期たるこの時期を対象として、(1)その過程と構造を八旗制に即して解明し、(2)興起の歴史的背景を闡明しようとするものである。
 本論をなす第1部「清初八旗の形成と構造」では、政権形成過程において、在来の諸勢力がどのように編成・組織化され、いかに位置づけられたかを検証し、あわせてその特質・淵源を考察した。まず第一章では、ニル(壮丁の供出母体となる八旗の基本単位)編成・世職授与・軍団長選任・六部任官において、在来マンジュ氏族の有力諸家系が、門地を基準とした上で功績・旗属を勘案して独占的に任用されていたことを明らかにした。これに対し第二章では、各旗に分封された旗王の側に視点を移して領旗支配の構造を検討し、領旗分封とは、ヌルハチ一門のうち、各旗上層部を構成する有力氏族諸家との有縁者が、同母兄弟ごとに授封されたものであったことを論証した。第三章においては、これまでほとんど検討がなされていない親衛隊制度を取り上げ、初めての専論として実証を提示するとともに、それを通して支配構造の核心を解明した。すなわち、ハンと八旗諸王が各自保有する親衛隊は、それぞれの警護・側近・精鋭部隊を兼ねるとともに各旗首脳・中央政府をも構成する集団であり、その本質は、隊員へのリクルートを通して、あらゆる成員をハン・諸王の家産的支配・主従関係へ包摂していくという機能にあった。
 以上から政権の本質を約言するならば、それは門地・功績に基盤を置く諸氏族が、帝室アイシン=ギョロ氏を君主に戴いて各旗に分属し、重要な地位・職掌を分有して支配層を構成した連合政権であり、その連合形態こそ八旗制であった、といえる。そこにおいては、ヌルハチ一門が旗王として各旗を支配するという一族分封・共同領有の原理が貫徹しており、ハンは、かかる並列体制下で序列・勢力ともに首位に立つ存在として、全体に君臨していた。このように要約するとき、階層的組織体系・親衛隊制度・一族分封・左右両翼体制などで特色づけられる八旗制とは、モンゴル帝国に代表される中央ユーラシア国家の伝統的組織法にほかならないことが明瞭に看取される。すなわちマンチュリアに登場した大清帝国は、支配集団自身は遊牧民ではなくとも、まさしく中央ユーラシア国家の系譜上に明確な位置を占める帝国だったのである。
 一方、第2部「清の成立と東アジア」においては、近年注目を集めている、大清帝国の形成と16-17世紀の東アジア情勢との関わりについて考察した。第四章では、この時期に明の周縁地帯各地で看取された、諸民族の混淆とその下での商業・軍事活動の隆盛を「華夷雑居」と捉えた上で、大清帝国がいかなる状況の中から興起し、いかなる形で自己主導の秩序を組み上げていったかを検討した。その結果、マンチュリア〜遼東において混住・雑居する満・蒙・漢・韓諸族が、八旗への編入・組織化を通じて帝国成員へと再編成されていったことを指摘し、これを「マンジュ化」と呼んだ。これは「華夷雑居」へのマンジュ的対応であるが、その淵源は同時代の他地域よりむしろモンゴル帝国の支配様式に求められるものである。
 以上を承けて終章「大清帝国形成の歴史的位置」では、大清帝国形成・発展の原動力は、16-17世紀東アジアの諸民族雑居・社会変動という同時代の情勢を、中央ユーラシア的軍政一致組織のマンジュ的形態たる八旗制の下に組織したことにあると結論した。これが本研究において主張するところの大清帝国形成史の枠組みであり、中央ユーラシア的特質と16-17世紀の政治・社会変動との交差の理解である。そして、じつはこのような政権の性格・組織法は入関以降も継続・展開している。ゆえに今後大清帝国の形成を論じるにあたっては、政権を中央ユーラシア国家として把握するところから出発せねばならないであろう。


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